2019年3月10日日曜日

TKR_13 八幡製鉄所溶鉱炉前の記念写真について


一つ前の投稿(TKR_12)にて、20151月の福岡市の公園計画担当係長からの植樹記念碑発見のメールが起点となって色々な歴史的・文化的事物に触れることが出来たことを書いたが、実は同じメールに、前年末の西日本新聞の記事を付して 2点目の質問があり「この写真の中に,貝島太助氏か嘉蔵氏もおられるのではないかと思い,もしお分かりになればご教示いただけませんでしょうか?」とのことであった 
今回はこの写真にまつわる話――貝島太助らが写っていない事情――についてまとめておく。

【1】記事の概要と掲載写真


   送られてきた記事は、「炭鉱主一堂、鉄の絆―八幡製鉄所で伊藤博文と撮影との見出で、概略次のような内容であった。
  • 官営八幡製鉄所の操業前年の1900424日、伊藤博文と井上馨が来所した際に撮影された集合写真があった。(筆者注:教科書等にもよく掲載される有名な写真; 1900年=明治33年)
  • 今般、銀塩ガラス乾板に残された原板をデジタルデータ化したところ、豆粒ほどの顔の判別も可能となり、福岡県筑豊地方の炭鉱主たちが写っていることが特定された。(筆者注:特定された人々の名が下の拡大写真中に記されている)
  • 製鉄所の完成間近という時期に、政治権力の中枢と筑豊の人脈が結集したという意味でも画期的な写真。筑豊の炭鉱主が一堂に会した写真はほとんど残っておらず貴重。

記事とともに掲載された写真を下に付す。

【2】写真中に貝島太助らが居ない事情の発見


 福岡市の担当係長からの質問に答えようと写真を見たが太助や嘉蔵の顔は見当たらず、それではと撮影年月をもとに「太助伝」を調べるうちに、一つ前の投稿にて(伊藤博文お手植えの檜と「占静悟」の書額に関連して)紹介した第十章第四節「侯伯の九州漫遊」に、その答えがあるのを発見した。
 即ち、ここに「明治334月下旬、伊藤博文侯及井上馨伯の九州漫遊は、・・・・而して両元老の斯挙ありしは偏に太助の斡旋尽力にあり」との書き出しで、かなり詳しい両元老の九州漫遊の経緯が記述されているのだが、この写真撮影については次のような記述がある。

  • 前日に太助は直方の自邸に伊藤侯を招いて盛んなる晩餐会を開き、翌424日には、朝 くだんの揮毫とお手植えを戴いた後、太助は侯らとともに直方を発して折尾にて井上伯一行と合流し、その後;
  • 「(若松築港)を視察し、転じて遠賀郡八幡町の製鉄所に至り和田長官の案内にて新営工事の状況を巡視しぬ。・・・かくて最後に当時工事中なる溶鉱炉の礎盤上に相乗り、一行撮影して紀念となせるが・・・・彼(太助)の斡旋奔走甚大にして、終始忙殺され、製鉄所における撮影のごときは、辰三郎等が影中にありしに拘らず、独り彼のみ列外に逸せしほどなりし。」
つまり、上記のデジタル復元写真に筑豊の炭坑主が勢揃いして写っているにも拘らず、太助らが居ないのはこの記述にて合点がいくのである。
<補足注記>
  • 前日の直方太助邸での伊藤侯を主賓とする宴会には六太郎・嘉蔵も陪席していたことが記されている。翌24日の若松築港・八幡製鉄所視察にも六太郎・嘉蔵が同行していたと思われるが、そこまで詳しい記述はない。
  • 引用文中「辰三郎等が影中にありしに・・」と記されているが、これは当時貝島家の家宰を務めていた金子辰三郎(金子堅太郎の弟)のことと思われる。
  • なお、24日の夜は、井上伯を主賓とする宴を直方太助邸で催している。(伊藤侯は下関へ)

なお、「太助伝」の「侯伯の九州漫遊」の節全文は、ここ TKR12_att-3 から閲覧できます。(九州大学石炭研究資料センター 石炭研究資料叢書 No.20「貝島太助伝(稿本)」19993
因みに、この節の結びとして、次の記述があることから推測されるように、なかなか興味深い一節です。
「此行に対する彼(太助)の行為は確かに予期の目的を達し、後年之が顕著の効果を産むに至り、国家の必須事業にして福岡県の二大事業中、製鉄所は素と侯の悦ばず、又た若松築港は伯の喜ぱざりし所なりしと雖も、侯伯今回の来遊は総べての万面に良好の動機を作り、二大事業とも現時の大発展を来し、尚は遠賀川改修問題の如き、鉄道線路延長の如き、悉く其好果を収むるに及び、更に福岡県出身の代議士実業者等をして爾後頻繁に侯伯の門に出入せしめ、以て同県をして天下に雄視せしめたり。」


【3】この写真の歴史的背景


いろいろな歴史的背景
 筆者は、旧八幡製鉄所現地でこの写真の展示や解説を見てはいないが、2017年に萩の明倫学舎にて(世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の展示の一環だったと記憶するが)この八幡製鉄所溶鉱炉前の記念写真を巨大なパネルとした展示を観たことがある。
 この有名な写真には、単に産業遺産的観点から「日本でこのような巨大な溶鉱炉を建造するまでになった」との見方をするにとどまらず、いろいろな興味深い歴史的背景があるようだ。

関連記述がある書籍の紹介
 筆者は特に調べたわけではないが、手持ちの書籍の中に次のような関係記述があることを紹介しておきたい。
      「太助伝」第7章・第1節「製鉄所炭坑買収問題」及び第2節「若松築港」
      永末十四雄「筑豊賛歌」第6章・一「政治への接近」
      朝日新聞西部本社編「石炭史話」の中の「近代産業への歩み」の部のうち、「石炭と製鉄を結び付ける執念」、「八幡に製鉄所誘致成功」「中国から原料炭輸入」の章*
      大野健一「途上国ニッポンの歩み」第6章、1.二つの戦争と「戦後経営」の節*
<注記> * の書籍には、この溶鉱炉前の記念写真(デジタル復元以前)が挿入されている。

  • ①~③には、筑豊の側から見た八幡製鉄所誘致の歴史が書かれている。 上の写真中に顔のある長谷川芳之助・安川敬一郎・平岡浩太郎の三者タッグが八幡誘致成功の立役者であったようだ。他方貝島太助は製鉄所誘致にからむ利害で帝国議会が紛糾する事態の調停のため、井上馨を担ぎ出すなどの尽力をしているが、表には出ていないようだ。
   ① は、ここ TKR13_att-1  から閲覧できます。

  • 他方④ は日本近代化を主として経済史の面から記述した書籍である。ここでは国営八幡製鉄の開業を、(政争の細部に立ち入ることなく)帝国議会開設以来の財政政策の関する論議(財政緊縮で行くか財政拡張で行くか)という流れのなかで触れており、日清・日露戦争のあとに中央政府・地方政府が強力に推進した一連の公共支出プログラムの主要な一例とされている。
      ④は、ここ TKR13_att-2 から閲覧できます。

  • このほかにも、この写真を製鉄技術史、八幡製鉄所史、とか著名人の伝記(伊藤/井上両元老の評伝、安川敬一郎日記などがあろう)の流れの中での一コマとして観ても興味深い話があるのだろうと思う。



【4】付記: 直方の太助邸のこと

直方太助邸(明治31年)
福岡市総合図書館所蔵(古文書目録⑥、番号607より)

 上の明治33年4月に伊藤/井上両侯が相次いで逗留した直方の太助邸とは、現在直方市の多賀町公園となっている場所に在った 伝説的な三層楼の豪邸のことである。
史書にある関連事項を年代順に簡単に記すと、以下のとおりである。
  • 明治22年:太助 負債山積の中、大邸宅新築の工を起こす。(翌年竣工)――余命少なき母親を安心させようとしたと、後年太助が述懐した由。
  • 明治24年3月:井上伯、偶々直方を過るとき、そびえたつ巨屋を見て興味を持ち、本邸に立ち寄り太助と面会す。――これが切っ掛けとなり貝島は一大経営危機から救われることとなる。
  • 明治31年10月:太助、本邸にて考(亡父亡母)の大法要を営む。――西本願寺新門跡大谷光瑞師来訪。(法要記録写真アルバムが現存 = 総図目録⑥、607)
  • 明治33年4月:  伊藤侯・井上伯 九州漫遊の途次 相次いで宿泊、地元炭鉱主や有力者・官公吏等も招き宴を催す。――上述のとおりだが、宴会の模様についてまでは太助伝に記述なし。
  • 明治33年10月:森鴎外、本邸に3泊す。――鴎外の「小倉日記」にかなり詳しい記述あり。


【5】根拠文献に関する筆者メモ(非公開)


2019年3月7日木曜日

TKR_12 邸内の記念碑から蘇る 嘉蔵と明治の元勲との交誼 と往時の文化

――邸内に残された植樹記念碑発見の報を起点として、伝記の記述や記念の文物を通じて嘉蔵と明治の元勲との交誼についてのエピソードが蘇った――


【1】記念碑発見の知らせから史料調べまで

1-1.邸内での植樹記念碑発見の知らせ

 2015年初頭に福岡市の公園計画担当係長からメールを受信。旧高宮貝島邸敷地内に存在する「雑木山」の維持整備をしてくれているボランティアの人からの連絡で現地に赴いたところ、明治の元勲・井上馨お手植えの松の石碑、及び伊藤博文お手植えの檜の石碑と大木に育った檜があったとのことで、下に掲げる写真も添付されて来た。そして石碑には明治何年と刻まれているが、高宮の地所は明治時代から貝島さんのものだったのかとの質問あり。(→ 直ちにそんなことはない、大正末年に購入した地所であることに間違いはないと回答)

表「大勲位井上侯爵記念松」 裏「明治二拾九歳十一月十二日」
表「大勲位伊藤公爵記念檜」 裏「明治三拾四歳五月二十六日」 碑の傍に檜の大木

1-2.植樹記念碑に関する筆者の記憶

 上の連絡に接すると、筆者には高宮邸内のあの雑木山頂上付近の神社社前のスペースにこれらの石碑が存在した幼年期のかすかな記憶が蘇った。正月には祖父をはじめ一家そろってこの神社(高宮神社と称していた)に参詣し、お神酒をいただくのを常としていた。(なお、同じ場所にあってより明確に記憶している「緑色の円い石柱で文字がたくさん刻まれていたもの」の方は失われてしまっているようだ。) しかし、松や檜の植樹そのものが存在していたか否かの記憶はない。
 他方、南八畳前の庭の向う側に、竹矢来の垣に囲まれた植樹(多分松)があった記憶がある。(ただしこの写真はいまだ見つけ得ていない。)

1-3.井上馨お手植えの松に関する史料調べ

   「井上馨の手植えの松」について見知っていた書籍等にて調べなおすと、「貝島会社年表草案」及び「嘉蔵伝」に、嘉蔵(高宮貝島家の初代当主、貝島太助の末弟)が明治29年に直方にて井上馨から松のお手植えをしていただいて大変喜んだ由の記事がある。なお、手植えを受けた嘉蔵邸であるが、明治29年には高宮に移築される前の西尾邸もまだ建設されていない。従って松はまず西尾邸に移植され、次いで邸の移築に伴って高宮に移植されたものに違いないが、石碑の製作年とともに移植の詳細までは不明である。(当時の執事日記にも記事がない)

1-4.伊藤博文お手植えの檜に関する史料調べ

    他方、「伊藤博文の手植えの檜」については「太助伝」に記事があるのを見つけた。即ち、その第十章第四節「侯伯の九州漫遊」に「明治334月下旬、伊藤博文侯及井上馨伯の九州漫遊は、・・・・而して両元老の斯挙ありしは偏に太助の斡旋尽力にあり」との書き出しでかなり詳しい両元老の漫遊の経緯が記述されているのだが、手植えの檜に関しては「此くて二十四日侯は貝島家一族のため扁額を揮毫し、尚は檜、椿の四樹を正門内に手植えし・・・」との行がある。
 さらに、「嘉蔵伝」には、大正4年竣工の西尾の嘉蔵邸(昭和2年に高宮に移築)にて、侯伯手植えの松・檜及び揮毫の扁額を嘉蔵が喜んでいる旨の記述があるので、明治33年に太助邸でなされた手植え・揮毫のひとつを嘉蔵がもらい受け、太助邸→西尾邸→高宮邸へと移されたものと思われる。


【2】お手植えの松の記録と 現存する短冊挟について


2-1.史書の記述紹介

   嘉蔵が井上馨伯よりお手植えの松を受けた明治29年は、本ブログ TKR_05 の【2】1)項に記述したように、貝島炭礦にとっては日清戦争による炭価高騰もあって利益を上げ、毛利家に対する負債を償還して鉱区の名義及び実権を回復 した年であり、嘉蔵(同年40歳)にとっては失明後にも拘らず、炭坑現場で辣腕を振るい始め、買収した大辻炭坑の坑長に就任した年に当たります。 
 また、これより先の明治24年、貝島の炭坑は負債山積して経営危機に陥り、井上馨の力添えにより毛利家の資金の融資を受けて救われるという歴史があるのですが、この過程で次のようなエピソードがあり、嘉蔵は井上侯の知遇を受けます。 即ち、嘉蔵経歴小観(M37年実業之日本誌所載;本ブログ TKR_03より閲覧可能)に、
明治二十三四年の交下関に到れる時、彼は親族惣代として太助と同行し、伯を大吉楼に訪ひ、貝島家一切の事業に対する意見を陳述せしに、終始傾聴せる伯は彼が企画の正鵠を得たるのみならず、又た彼が心術の純良なるに感じ、徐に坐を進めて彼の手を握り、『君が盲眼は其身に取りて此上なき不幸に相違なし、然かも兄太助の為めには幸なり、君為めに専心一意斯業に従事す、今後我が援助を与ふるは、兄太助の人と為りを信ずると同時に、併せて君が人と為りを信ずるを以てなり』と語り茲に援助の約は成れり。
とあります。

 そして明治29年のお手植えの松を受けた場面と祝いの和歌については、次のように記述されています。
嘉蔵経歴小観(M37年実業之日本誌所載)より抜粋
 
   また、このお手植えの松を受けて数年後の撮影だと推定されるが、嘉蔵経歴小観(M37年実業之日本誌所載)には下の写真が収録されている。(お手植えを受けた当時の雰囲気が分かるような気がするが、どうであろうか)


2-2.お手植えの松に各界から寄せられた和歌と現存する短冊挟み 


短冊挟の再発見
 上の史書にある各界から寄せられたお手植えの松に因む祝いの和歌の記事を読み返して、筆者は、平成15年の高宮の蔵整理時に福岡市総合図書館に預けた古文書類の中に「短冊挟」の名の箱があったのを思い出し、同館に赴いて見分したところ、正にこの時に寄せられた詠(うた)270首の短冊がアルバム状に収められたものであることが分かった。保存状態は良く、金地の短冊もあって魅力的な品であった(全点写真撮影済みである)。

短冊挟を開いたところ(二例示す)
短冊の左下の台紙に、詠み人の氏名等が記されているものが多い
 嘉蔵の詠四首の読解
短冊に書いてある和歌の文字は(万葉仮名も交じっており)筆者のような素人には全く読むことが出来ないが、末尾の短冊4点は嘉蔵の作であることが分かった。これだけでも是非詠の内容が知りたいものと友人に相談したところ、幸いにも久留米大学附設高校教頭の名和先生が読み解いて下さった。その読解結果をここ、TKR12_att-1 に示す。
美しいが読めなかった短冊の映像イメージとともに「梢ふく風の音にもしるきかな 貴き恵みの松の栄を」といった読み解かれた詠に接すると、曾祖母ヒロが嘉蔵の傍らで短冊に書き取ったり読み聞かせたりする情景や、艱難辛苦に満ちた半生を乗り越えて来た二人の喜びが目に浮かぶようで、感じ入ることしきりであった。


 このほかの多数の和歌の読解
その後、この4首以外の多数の和歌についても、全体の2割あまりに当たる63につき、東京大学大学院博士後期課程在籍で近世・近代文学研究者の川下俊文氏を煩わせて読み解いていただくことが出来た。そして次のような見分結果概要を知らせてくれた。(H28年8月)

一通り読んでみましたところ、和歌の内容はすべて、貝島家が松とともに末永く栄えることを祈願したものです。
注目すべき作者としては、
前田利声(第12代富山藩主)、久我建通(幕末の内大臣)、松平慶永(春嶽、第16代越前藩主)、津軽承昭(第12代弘前藩主)、
江藤正澄(出雲大社神官・国学者)、鈴木重嶺(佐渡奉行・歌人)、園八尋(阿倍野神社宮司・国学者)、大井菅麿(井伊谷宮宮司・国学者)、
島地黙雷(浄土真宗本願寺派僧侶)、足利義山(浄土真宗本願寺派僧侶)、千家尊福(出雲大社宮司・司法大臣)
そのほか、福岡県は当然として、なぜか隠岐と石川県の作者が多いようです。
歴々の有名人から名もなき一般人まで、どうして和歌を寄せることになったのか、不思議なものです。

 嘉蔵が和歌をたしなむまでになったことも驚きであるが、郵便しか通信手段がない時代に、こんなにも広い地域の幅広い貴賎の人々が共感して祝いの詠(うた)を寄せてくれたということも大変驚異的に思える。――「題詠」ということだったのだろうかとも思うが、往時の文化レベルの高さがしのばれ、大変興味深い。


2-3.川下氏読解結果のレビューなどについて


 川下氏読解結果の筆者レビューとその抜粋
今回 本ブログ作成に当たり、上の63首の読解結果テキストを川下氏から提供いただいた。テキストは、各々の和歌につき[詞書][短歌][作者]及び(判る人物については)簡単な人物紹介が列挙された周到なものである。そしてこれを筆者なりにレビューして、次の「5つの興味深い項目」につき該当する和歌12首を抜粋してみた。この12首はここ TKR12_att-2 から閲覧できます。
この「5つの興味深い項目」とその説明を下に記します。

1)「嘉蔵伝」に掲載されている和歌: 
嘉蔵自身のもの、久我侯のもの、大谷光尊伯のものが掲載されているが、光尊伯のもの以外の2首はこの短冊挟に収められていることが判明。
2)貴顕紳士の和歌: 
前田利声(第12代富山藩主)、島地黙雷(浄土真宗本願寺派僧侶)、津軽承昭(第12代弘前藩主)らのものを例示しておいた。
3)手植松の祝いかどうか不確かだが 興味深い作者の詠: 
[詞書]などから手植松祝いではなさそうだが、松平慶永(春嶽、第16代越前藩主)、鈴木重嶺(佐渡奉行・歌人)、及び三遊亭円朝の句と思われるものが短冊挟に収められていた。(なお、春嶽の没年は、手植えの年・明治29年より前である。三遊亭円朝は井上馨の家に出入りしていたことが知られている。)
4)嘉蔵の人となりを知って詠んだと分かる和歌: 
これほどの数の祝いの詠が寄せられたということは、嘉蔵の人となりについても各作者に伝えられたのだろうと想像されるが、そうであったことが[詞書]などで読みとれる和歌は意外と少ない。この抜粋に収録した江藤正澄(出雲大社神官・国学者)のものは、これに該当する数少ない例である。
5)作者が何処で手植え松を見たか明示されている和歌:
多くの和歌は遠隔地で詠まれ、作者はお手植えの松の現物を見てはいないと考えられる。また詠まれた時期はお手植えの明治29年から数年間以内のものが殆どと思われる。そのような中で少数ながら、随分後の時期になって西尾邸(大正4年に完成披露)または高宮邸(昭和2年に移築完了)にて、記念の松を見て詠んだと明示されている詠も見つかった。


 和歌を寄せてくれた一般人の名
前述のように、市井の一般人と思われる方々からも多数の祝いの和歌が寄せられたことは驚くべきことであり、どのような人的ネットワークが存在したのかは興味深いところです。その点が解明される期待もあって短冊挟に付された作者名タブの記事を以下に掲載しておきます。

もしご子孫の方などで、ここにあるお名前をご存知の方は、是非筆者に連絡いただきたいと存じます。

筑前/池浦晴吉、筑前/日並永通、筑前福岡/滝迅郎、筑前/安永六郎、筑前/安田耕作、筑前/高原八代子、筑前/藤井惣三郎、筑前朝倉郡/入江直太郎、筑前福岡/勲八等 宗徳雄、福岡/岡沢麟太郎、福岡/平山乕雄( x 2)
筑後/中垣祐之、筑後三潴郡/吉田実、筑後三潴郡/酒見恒蔵、筑後久留米/宅原武三郎、豊前/明石忠次郎( x 2)、豊前/寉田住蔵、豊前/青柳筑摩、豊前/大森政方
加賀/瓜生近就、石見/桜井彀、越前/朝比奈祐禧、石川県/三輪三隠、石川県/高畠米護、石川県/笠森艶子
隠岐/佐藤貞五郎、隠岐/大西元祐、隠岐/寛信、隠岐/久麿、隠岐/松浦荷前( x 2)
尾張/伊藤秀親、三河/木俣周平、三河/桜部大梁
下野/頼高熊三、東京/加藤、大阪市/佐々木美比古、山口県長門国/高橋卓夫
別に(作者名なし)x 10



【3】伊藤侯お手植えの檜の記録と 同時に頂いた現存する書額


31.史書の記述紹介

前述のように、嘉蔵が戴いたお手植えの檜は、伊藤侯・井上伯の明治33年の九州漫遊の際、直方の貝島太助邸に逗留した伊藤博文が、同424日、「侯は貝島家一族のため扁額を揮毫し、尚は檜、椿の四樹を正門内に手植し、」と「太助伝」に記されたものの一つである。(なお、この短い行以外には伊藤侯の手植や揮毫の時の情景が記述された文書は残されていないようである。
 おって、「太助伝」のこの「侯伯の九州漫遊」の節は、ここ TKR12_att-3 から閲覧できます。(九州大学石炭研究資料センター 石炭研究資料叢書 No.20貝島太助伝(稿本)19993

3-2.植樹と同時に頂いた現存する書額

上述のように植樹と同時に貝島一族は伊藤侯から扁額に揮毫を戴いているが、其のうち嘉蔵が戴いたものが現存している。(福岡市総合図書館所蔵。古文書資料目録⑥、高宮貝島本家取集資料 番号4
即ち、「占静悟」がそれであり、下に写真を示します。(以下の書額の写真はいずれも市への譲渡前に当方にて撮影したもの



「占静悟 庚子初夏 博文」と書かれており、読みは「セイゴをシム カノエネの初夏 博文」。「占静悟」は禅語であるらしいのですが現在までのところ筆者にはその出典や意味を明らかに出来ていない。庚子は明治33年のことであり史書と符合する。
嘉蔵と伊藤博文との間の交誼の記録は、上の明治334月のイベントの時以外残されていないようであるが、嘉蔵が福岡の鉱業家を一団として政友会支持でまとめることに尽力した経緯があるので、書状のやり取りはかなりあったのかもしれない。嘉蔵はこの「占静悟」の書額を大切にし、終生自邸の本座敷に掲げていたようである。(次節の写真参照)


【4】お手植えの松・檜や 記念の文物を喜ぶ様子


4-1.「嘉蔵伝」にある記述の紹介と 関連写真

大正7年に出版された吉村誠著の「嘉蔵伝」(本ブログTKR_01にてその録音図書を収録)の最終節である「暗夜時計」の節の中に、次のような記述がある。前段は明治31年、後段は大正6年ごろ西尾邸での情景であり、嘉蔵がお手植えの松・檜や 記念の書額などを(頂いた数年後に)喜んでいる様子が表現されている。


この記述から、西尾邸においては本座敷から見える位置にお手植えの松・檜が並んで植えられていた模様であること、「占静悟」ほかの書額が本座敷(=移設されて高宮に現存している本座敷)に掲げられていたことが分かる。

 下の写真は「占静悟」の書額も見える西尾邸本座敷の写真である。


4-2.その他の書額について

上掲の「嘉蔵伝」にあるその他の書額についても、録音図書製作の過程でそれぞれの読みや意味について川下氏より教示を受けた。

●「直養心精守業 為嘉蔵貝嶋 誡 世外」の写真を下に示す。
読みは「スグニ心ヲ養イ クワシク業ヲ守レ 嘉蔵貝島ノ為ニ カイ  セガイ」である。誡は "いましめ" の意、世外は井上馨の号。意味は、「まっすぐに善心を養い、精密に家業を維持せよ」 


●「致其知 戊申春 東郷書」の写真を下に示す。
読みは「ソノ知ヲ致ス ツチノエサルの春 東郷書す」、典拠は「大学 経一章」、「ツチノエサル」は明治41 年、東郷は東郷平八郎
「大学 経一章」の当該部分とその意味は、下記URLから見ることが出来る。 
     https://kanbun.info/keibu/daigaku01kei.html
 詩吟でも詠われる一章であるようだが、当時の人たちは「致其知」と見れば、その前後を含めた詞をすぐに想い起こして意味を了解することが出来たのであろうか。東郷元帥と嘉蔵の交誼についてはよく判っていないが、日本海海戦で(カージフ炭のみならず)大之浦炭が活躍したとかで、貝島が感謝状を受けたと聞いている。

4-3.明治の元勲らとの交誼の全般について

  • 昭和10 年の高宮本邸に於ける嘉蔵の葬儀には、伊藤公爵・井上侯爵の代理の方が来られた記録がある。明治の元勲であり手植記念碑のあるご両所との浅からぬ交誼を裏付けているものであろう。
  • また、上の二つの書額も「占静悟」とともに総合図書館が所蔵しているが、同様の錚々たる人物の筆による作品は、総計49点(書跡・額装29点、書跡・掛15点、書跡・巻子装1点、絵画・額装4)に及んでおり、これらについても読み解くことが出来れば面白いものもあるかもしれない。(いずれも福岡市に譲渡済みで同館が所蔵、同館資料目録の解説ページをここ TKR12_att-4  に示す


【5】まとめ

 以上、2015年に植樹記念碑が雑木山の中から見つかったとの知らせを受けたことが契機となって、史書を調べたりしているうちに再認識した興味深い歴史的経緯や、現存している魅力的な文物(手植の短冊挟 及び 明治の元勲らの書額など)について紹介した。色々写真などを挿入したが、このような話に興味を持つ人が現れて更なる研究が進めば嬉しいと思っている。


【6】付言 

  • 井上馨は貝島の創業の大恩人とされ、家憲制定(明治42年)をしてもらうなどしている。井上の嘉蔵の評価は高かった模様であるし、嘉蔵も終生井上侯を大変尊敬し続けたようである。しかし、井上馨と貝島家の交誼は問題も多く、ある書籍には「一時代を経過してみれば伝説化された創業の大恩人井上馨も、じつは疫病神でしかなかったのである。」と書かれているほどである。この辺りについては、別の投稿で触れてみたいと思っている。
  • 高宮公園の中に市登録文化財として残される本座敷に、上掲の書額のレプリカを掲げるなど往時の和風のしつらえを再現し、且つ短冊挟の展示するなどもしながら、邸内雑木山に現存する記念碑や嘉蔵伝(録音図書もあり)などと関連付けて解説するなどすることにより、来場者に嘉蔵夫妻の手植松を賜った喜びに共感できるよう誘ったり、明治の近代化時の文化の一面として紹介したりすることが出来るのではないだろうか。またそのような運営が、邸の歴史的・文化的価値の発現という市が公募要綱に示した意図に沿う運営の一例となるのではないかと思うが、如何であろうか。

【7】根拠文献等に関する筆者メモ(非公開)

TKR_16 嘉蔵と竹本津太夫(番外)

ーー国立文楽劇場での特別展示ーー 2019年9月28日より11月24日までの期間、国立文楽劇場(大阪)にて特別企画展示「紋下の家 ―竹本津太夫家に伝わる名品ー 」が開催されています。 今回はこの展示のうち貝島家に関係する部分を中心に展示の概要を説明します。 ...