いずれも単行本ではありません。
① 高野江基太郎「筑豊炭礦誌」(明治31年)所載、鉱業家略伝中の「貝島嘉蔵君」
② 実業之日本誌 7巻2~4号(明治37年)所載 ”経歴小観”、敬民子(著)「我実業界の盲偉人(貝島嘉蔵氏)」
③ 石炭時報 第2巻第8号(昭和2年8月)所載 ”懐旧談”、貝島嘉蔵(談)「思ひ出づるまゝーー粒々辛苦の跡ーー」
① 高野江「筑豊炭礦誌」所載 嘉蔵略伝:
筆者が知る限り最も早い時期(明治31年)に書かれた嘉蔵の略伝です。
高野江は「門司新報」の記者であった由で、「筑豊炭礦誌」全733頁にて 第一編「総論」に次いで、第二から五編にてそれぞれ「遠賀郡」「鞍手郡」「嘉穂郡」「田川郡」所在の全107箇所の炭坑のデータを記載していますが、末尾45ページを割いて「鉱業家略伝」として26人の抗主クラスの略伝を記しています。
紹介する嘉蔵のもの(2ページ分)はその一つであり、太助、六太郎のものと並べて略伝が収録されています。
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明治37年に、実業之日本誌の実業界人を紹介するシリーズ記事「経歴小観」の一つとして、3号連続で嘉蔵の経歴が紹介されたものです。(合計10ページ) 著者敬民子はペンネームと思われますが、どのような人物か調べがついていません。
本書について筆者は最近まで承知しておらず、吉村著「偉盲 貝島嘉蔵翁」の前付序文(小西東京盲唖学校長寄稿)で言及されているのに気づいて、国会図書館に赴いてコピーを入手しました。本書は当時の実業界の人々を読者として想定しているためと思われますが、文脈が明快であって嘉蔵の人物像がイメージできるので、筆者には好ましく感じられます。小西校長も嘉蔵に会って「実業之日本誌、我を欺かざるを知れり」との感想を記しています。なお、先頭の号には興味深い写真4枚のページも付されています。
前回紹介した吉村著「偉盲 貝島嘉蔵翁」と記述を比較したところ、その大部分(小見出し節の数にて77%)は本書を下敷きにしていることが判明しました。(後半生&余生の章は吉村オリジナル) さらに下敷きにしている部分について両著述の異同を吟味すると、吉村が本書をもとに嘉蔵ほかの話を聞いて補筆したと推察される記述となって居ます。当該実業之日本誌が太助兄弟がまだ現役で炭坑現場にいた時期に出版されたことと併せ考えると、本書の記述内容にはかなりの信憑性があると考えてよいように筆者は思っています。
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③ 石炭時報所載、嘉蔵懐旧談「思出づいるまゝ」:
昭和2年、嘉蔵71歳のときの懐旧談であります。6ページ分の分量です。
記者が口述筆記したとされますが、読むと筆者には嘉蔵の肉声が聞こえるような感があります。本人が語っているので、第一級の一次史料と見なすべきでありましょう。
まとまった伝記ではないので、嘉蔵が語っていることの背景事跡等を他の資料で知っていないと理解がついて行きがたいところがあるかもしれませんが、人柄が偲ばれるような潤色のない語り口になっています。
特に注目したいのは、「自分は大之浦炭坑に十三年居り、其後大辻炭坑に十三年居た。此間が自分の一番働き盛りであり、又思ふ存分働けた期間であった。」と懐述していることです。後に褒章を頂く理由となった小学校創設や免囚保護事業を 嘉蔵の主たる功績として称揚するような人が多いようですが、嘉蔵本人は引退後も炭坑現場での存分な働きこそが誇りであったのだろうし、現場での当時としては先進的な工夫の数々が本書で述べられています。
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