2019年11月19日火曜日

TKR_16 嘉蔵と竹本津太夫(番外)

ーー国立文楽劇場での特別展示ーー



2019年9月28日より11月24日までの期間、国立文楽劇場(大阪)にて特別企画展示「紋下の家 ―竹本津太夫家に伝わる名品ー 」が開催されています。
今回はこの展示のうち貝島家に関係する部分を中心に展示の概要を説明します。

本展示会のチラシ


チラシのコピーを下に示します。

チラシの裏面には本展示会の開催趣旨、主な展示資料リスト、三代・四代津太夫の略歴の記述がありますが、これらについてはここ TKR16_att-1  から pdf コピーにて閲覧することが出来ますのでご覧ください。

貝島家と関係のある展示品


展示品のなかに次の2点も含まれていますが、これらは貝島家ゆかりの名品です。
Ÿ   梅模様見台(貝島家贈呈、螺鈿の高蒔絵)
Ÿ   横山大観筆、富嶽図の大作「霊峰一文字」(貝島家が資金主、現物は借りられず大型パネル画像のみ展示)
このうち「霊峰一文字」については、本ブログ TKR_14 にて紹介しました。
以下では「梅模様見台」の方について説明します。

▶ 梅模様見台の姿
  チラシにある梅模様見台の写真を少々拡大して下に示します。

▶ 図録に記載された本見台の解説
   縦34.5 横51.5 高47.5
   大正十三年(1924) 貝島家贈呈 村上家蔵
 大正十三年(1924)五月、御霊文楽座で三代津太夫が紋下披露を行った際に、九州・貝島炭鉱創業者の貝島家から贈られたものといわれる【白井】
 竹本津太夫家の定紋「釜敷梅鉢」にちなんで、黒蝋色塗地に高蒔絵と螺鈿で枝振りの良い梅が豪快に描かれている。梅の幹や枝は金粉と青金粉の蒔きぼかしにより色の変化をつけている。梅の花や蕾に白蝶貝の螺鈿が用いられ、蒔絵は平目粉を蒔いた研出蒔絵とする特殊な表現が見られる。
 房掛けの金具は銀製で、贈り主である貝島の紋「片喰」。紋板の表(客席側)は津太夫家の「釜敷梅鉢」だが、裏(太夫側)の紋は貝島の正式な紋である「丸に剣片喰」が金粉の高蒔絵で表されている。抽斗の金具は、取手が赤銅地に金と銀の色絵で「竹」を表し、座金は銀製で「松」葉を象る。蒔絵の梅と併せて「松竹梅」となる。贅を尽くした名品。
 四代津太夫もこの見台を大事に使い、「九段目(山科閑居)」や「岡崎」などの大曲を勤める舞台で使用した。

嘗てのTV番組での白井健輔氏による本見台解説の言葉より
 NHKBSテレビ「山川静夫の“華麗なる招待席”四世竹本津大夫」の中の白井健輔氏の解説「津大夫ゆかりの品々」(平成十四年十一月二十六日放送)のなかに、本見台について次のような言葉があった。
 即ち、「三代津太夫は福岡県香春町の出身であるが、後に炭坑で大成功された貝島炭鉱の社長さんとは小学生の鼻たれ小僧の頃から仲良しであったので、(紋下就任祝いに)贅を尽くしたこの見台を下さった」と。
 津大夫家側にこのような口伝が残されていたことは、(筆者が母から聞いた貝島家側の口伝とも符合するところがあるので)筆者にとっては非常な驚きであったが、白井氏の言葉には一部不正確なところがある。即ち文献を調べると、貝島家には三代津太夫(1869年生まれ)と小学校で同級であり得る人物は一人もいません。(創業者貝島太助は津太夫より24歳も年長) 他方、太助の末弟嘉蔵は明治4年~10年の間、香春町の吉村一作のもとに養子に出されていたとの記録がありますので、幼少期の津太夫と香春で交友を持ったのは嘉蔵であったに違いないと筆者は思っています。(両名が香春町で重なるのは、嘉蔵 16~22歳;津太夫 3~9歳)
 残念ながら筆者の許には本見台贈呈に関する明確な記録は残されていないのですが、贈呈された大正十三年には、太助やその嗣子栄三郎は既に没している一方、嘉蔵は存命中であったので、上の幼少期の話とも併せ、贈呈には嘉蔵が関与していた筈と筆者は想像しています。



その他


本展示会の「図録」(約90ページ)が主催者である独立行政法人日本芸術文化振興会より発行されています。展示品に関する多くの図版のほか、関連する資料類も収録されています。内容の概略は目次ページのコピー TKR16_att-2  を参照方。

以上

2019年6月30日日曜日

TKR_15 嘉蔵と竹本津太夫(その2)

ーー貝島の浄瑠璃趣味に関する遺品と史書記述などーー



一つ前の投稿(TKR_14)にて、大観の「霊峰一文字」の来歴にまつわる話から、贈呈に関わった「資金主貝島」は本当は誰なのか、また嘉蔵らの浄瑠璃趣味や津太夫との交誼はどのようなものであったかなどについて興味を持ち、色々調べを始めることとなった。
一直線に調査が進んだわけではないが、今回は高宮邸に残されていた浄瑠璃趣味関係の遺品 と明治期の太助・嘉蔵の逸話などについて知り得たことを記述したい。
いわば嘉蔵と津太夫との交誼に関する話の前史に当たる話題である。


【2】高宮邸に残されていた浄瑠璃趣味関係の遺品


高宮邸の蔵に残されていた物品の中に、嘉蔵らの浄瑠璃趣味関係のものが幾つかある。調査は先ずこれらを確かめることから始めた。

21.嘉蔵特注の見台

 前回の投稿(TKR_14)冒頭に記したように、筆者が1999年の友泉亭での招宴時に見たことがあって記憶に残っている義太夫見台について、20156月、福岡市総合図書館に依頼して見分させて貰った。
 写真を下に示す。

 貝島の家紋散らしが施された特注品である。(家紋は丸に剣片喰)
 箱に書かれた墨書などからこの見台は明治436月、大阪佐野屋橋筋 山家屋の手により新調された嘉蔵所有の義太夫見台であることが判る。本止め右手辺りに扇子を打って拍子をとったと思しきキズが多数残っており、実際に嘉蔵がこの見台を使ったものと思われる。
 なお、明治43 (1910)年には、嘉蔵は既に炭坑現場(大辻鉱業所長)を退いて西尾の家に居住していた。(なお、西尾邸全体が落成したのは数年後のこと)

22.浄瑠璃稽古本

 見台と同じく高宮邸の蔵に残されていた浄瑠璃稽古本(と称してよいのだと思う)が48冊残されており、総合図書館が整理して仮目録にしてくれていたもの一式を見分した。

 筆者の見るところ、この稽古本一式は 2つのグループに大別されるようで、
  •  一方は表紙に「福岡市高宮・貝島本家」のスタンプ押印がある32冊。 皆印刷された書刷であり発行者は大阪。あまり使用感が無い。――これらは健次が大正~昭和初期に文楽見物に際し購入したものではないか思う。
  •  他方は上のような押印が表紙にないもの16冊。 使用感があるもの、朱書の書き込みがあるものが多い。半分くらいは木版墨摺りであり、博多で印刷・発行されたものも3冊ある。――これら16冊は嘉蔵が実際に稽古で使ったものだろうと想像される。
 第2グループ16冊のうち最も古い年代のものは、明治211888)年4月の「奥州安達ケ原 三段目 袖萩祭文ノ段」であるが、写真からも分かるように使い込んで手垢のついたような代物であり、且つ中身の詞章ページに所々紙が貼ってある。そのほか古い出版年のものは 明治232326年のもの計3冊(いずれも木版)があるが、何故か明治30年代のものはなく、次は明治41年以後となっている。
   博多で出版の稽古本      紙を張った箇所があるページ      手垢がつき使い込んだ形跡 

 前述の嘉蔵の見台のキズや、これら手垢のついた古い稽古本を間近に手に取って見ていると、筆者は嘉蔵が熱演している姿を妄想してしまったのだが、盲目なのに稽古本をどのように使ったのかは想像もつかず全く不思議である。
 なお、見台、稽古本のほかにも、嘉蔵翁の肩衣と袴が残されている。(そのほか、2003年の高宮邸の蔵の最終整理の時点では太棹も残されていたように記憶するが、処分してしまったようだ。)

23.浄瑠璃のSPレコードアルバム

 邦楽のSPレコードアルバムが5点残されており、これらについても見分した。(いずれも福岡市総合図書館に預託中) そのうち3点は浄瑠璃であり、具体的には次のとおり。
  • 義太夫 菅原伝授手習鑑 竹本津太夫
  • 浄瑠璃 合邦      豊竹古靭太夫
  • 浄瑠璃 堀川猿廻しの段 豊竹古靭太夫
 なお、これらは嘉蔵でなく、健次が購入したものであろう。筆者が見分した時にこれらSP盤よりデジタル音声録取を行ったが、これら古い名人の録音については、別の投稿で改めて触れることとしたい。

▼ 本章のまとめ

以上、高宮邸の蔵に残されていた浄瑠璃趣味関係の物品である「嘉蔵特注の見台」「数十冊の浄瑠璃稽古本」「大正~昭和初期の名人太夫のレコードアルバム」について説明した。



【3】貝島側史書などに記された太助・嘉蔵の浄瑠璃趣味


本章では、上述の記念の物品にも導かれて、筆者が貝島側の史書や記録を調べたことにより判明した、嘉蔵らの浄瑠璃趣味に関する明治期までの情報をまとめることとする。
(なお、大正期以降の記録調査結果については、別途後の投稿で述べる予定)

31.嘉蔵の伝記類の関係記述

 嘉蔵が浄瑠璃趣味を持っていたことは、前章で述べた遺品から確かなことと思われるが、嘉蔵の伝記・略伝の中で浄瑠璃趣味に言及しているのは、「嘉蔵経歴小観」(M37年実業之日本誌所載;本ブログ TKR_03より閲覧可能)中の次に示す最後の一行のみであり、吉村誠著「偉盲 貝島嘉蔵翁」では何も触れられていない。
「△強記と嗜好: (前略)彼の嗜好は浄瑠璃音曲に在るが、就中琵琶及ぴ鼓を好む、而して演劇も亦た彼の好むところなりと」

32.「貝島太助伝」の関係記述

 他方「太助伝」では、太助の浄瑠璃天狗ぶりがあちこちに出て来る。即ち、次のようなエピソードが記載されている。これらの記述から嘉蔵の浄瑠璃への関わりの推移をも想像することも出来よう。
     (明治13年)三弟嘉蔵失明後の無聊を慰めるため、三絃の稽古を奨めたが容易に応じないので、一計を案じ太助自ら浄瑠璃を学んでこれに和すよう仕向けたこと。
     (明治13年)三男健次誕生に際し、太助は浄瑠璃の稽古に夢中でなかなか名前を付けなかったこと
     (明治18年ころ)太助は(未だ経営が安定していない時期にもかかわらず)往々木屋瀬(こやのせ)、植木、直方等に豪遊を試み、屡ば浄瑠璃会を開き、炭坑の納屋頭領と親しく出語りし、嘉蔵及び師匠盲人円若に相方三絃を弾ぜしめたが、其顔触の珍奇なるゝ毎に聴衆多く、往々滑稽であった。[注:盲人の師匠に就いて太助・嘉蔵が稽古を始めたことは要注目。師匠と嘉蔵が盲目、太助は読み書きが出来ぬという環境下で口伝による稽古が成り立ったということになる
     (上と同じころか)ある日木屋瀬村での上と同様な浄瑠璃会に 博徒長井平次郎なる者多数の暴漢を率ひて突然入場して罵詈嘲笑を極め無礼を働いたが、太助の部下が場外に排除して懲らしめた。村民が嫌悪していた博徒だったので快事とされた由。[注:木屋瀬(こやのせ)は直方の北方約5㎞に位置し、遠賀川沿いの宿場町で長崎街道と唐津街道の分岐点にあった宿
     (明治35年)太助が麻生太吉らと同伴して上海視察の途に上ったことがあったが、海上無聊に堪へず、独り悠然甲板に出てゝ胡坐して盛んに浄瑠璃を語りだした。金髪碧眼の婦人はじめ皆吃驚して集まってきたが、太助は平然として語るのをやめなかった。
     (上と同時期のことか)太助は一たび浄瑠璃の稽古を始まると、たとえ急用があって面会を求めてもその終る迄待されるのが常であった。また協議していてまだ結論が出ていなくても、ほぼ方針が分かると座を立って稽古を始めてしまい、最終結論のために座に戻るように呼びに行っても聞かなかった。
     (明治4011月)東京での井上馨侯の70歳の寿宴に招かれたが、途中大阪より竹本文太夫[後の3世津太夫]を連れて行き、太夫に菅原四段目を語らしたが、侯大に満足し、『流石は浄瑠璃天狗の推挙ほどあり』と賞した。
     (明治40年、上と同じ宴)井上侯が返礼にと、太助に 素晴らしいとともに由緒あるお宝見台を下さった。[注:この見台の行方は不明

 上述の各エピソードの「太助伝」中の原文記述は、ここ TKR15_att-1  から閲覧できます。(本項の筋道からは少々脱線しますが、太助の人柄の一面を語る面白い読み物ともなっています。)
 なおここで、明治41年の上記 ⑦ は、3世津太夫と貝島が贔屓として接触を持ち始めたことを示す最も古い史書記述となっています。この行の抜書きは以下のとおりです。(嘉蔵もこの宴席に同席していたかどうかまでは判りません。)
明冶四十年十一月二十八日井上侯東京に於て七十歳の寿宴を催す。彼太助のこと例の如く招かれて上京するや、途次大阪に立寄り、竹本文太夫後に三世津太夫を襲名を拉して行く。此くて侯の長寿に肖からんと、十二月十三日侯を築地瓢屋に請じて盛宴を張る。手踊、落語、長唄等の余興数番の後、文太夫をして菅原四段目を語らしめしが、侯大に満足し、『流石は浄瑠璃天狗の推挙ほどあり』と賞し、且つ彼に謂って日く、『今夕の返礼として卿に好個の物品を与へん』と、侍者をして席上に運ばしめぬ。・・以下素晴らしい見台を頂戴する話が続く

33. 森鴎外が太助に面会後 友人に宛てた手紙の記述

 森鴎外は明治3310月直方の太助邸(TKR_13にて紹介した)に立ち寄り3泊しており、「小倉日記」にその時のかなり詳しい様子の記述を残している。その中で太助の人物像については、六日、「主人太助出でて客を見る。五十歳許の偉丈夫なり」と簡潔に記している。 、また、小倉日記に加えて鴎外が親友賀古鶴所に宛てた手紙があって、その中に
「近頃九州の炭坑王貝島太助に面会せしが、目に一丁字なき男なりというに、末松(謙澄)大臣に電氣をかけて筋肉をしまらせた如き風骨にて立派なるやつに侯。朝から暮まで浄瑠璃をうなり居れど、炭山事業は死ぬまで止めぬよう申居由に候
との行があるとのことである。(1999年 谷伍平氏が新聞に寄稿された「森鴎外と九州文化」と題する記事による。

▼ 本章のまとめ

上述の嘉蔵の遺品や「太助伝」の浄瑠璃関係記述を見ると、嘉蔵も浄瑠璃を愛好し、自身で稽古した時期もあったことは確実と思える。最初は明治10年代に太助の庶民的な素人浄瑠璃語りの相三味線でスタートし、後に自身でも語るようになったようだ。ここで、相三味線は稽古本を暗記して演奏するわけだが、嘉蔵は失明前の1522歳の頃豊前香春の養家で浄瑠璃を習い覚えたと思われ(推定根拠については次回記述の予定)、これが役に立ったのかもしれない。なお、嘉蔵の浄瑠璃趣味が史書や口伝であまり伝えられていないということは、人前で語るまでのことはしていなかったということかもしれない。



4】九州の於ける曾ての素人浄瑠璃隆盛の様子について


戦後生まれの世代、現代のほとんどの人たちには想像もつかないと思うが、明治初期から昭和20年代までくらいの間、九州で(全国でも各地で)素人浄瑠璃が大変隆盛であったそうである。このような状況が当ブログの表題「嘉蔵と竹本津太夫」の背景となっていると思うので、筆者は全くの門外漢であるが、この辺りのことについて研究者などから教えて頂いた情報の一端を記述してみたいと思う。

4-1.素人義太夫隆盛の概観

 近代において素人義太夫が隆盛であった状況の概観について、研究者の所論を筆者なりに要約すると以下のとおりである。

  • 「浄瑠璃」と総称される三味線を用いた語り物音楽は、江戸初期には人形芝居と結びつき、様々な演者による人形浄瑠璃が亰・大阪・江戸で興行されていた。その中で江戸前期に竹本筑後掾が浄瑠璃の一派たる義太夫を創始し、大阪道頓堀に人形芝居小屋「竹本座」を立ち上げ、近松門左衛門と提携してたちまち一世を風靡した。
  • 一方、音曲としての要素を持つ義太夫は、人形芝居を離れ、寄席や座敷において太夫と三味線だけで語られるようにもなった。(この上演形態を「素浄瑠璃」とよぶ。)十九世紀には義太夫の稽古が主に町人の間で普及し、素人が語りや三味線を稽古しておさらいの会合を持つことが広くおこなわれるようになる。(この活動や人を指して「素人義太夫」と呼ぶ)素人義太夫は幅広い人気を保ち、その様相は単に慰みとして語ってみる程度のものから、多大な財力をつぎ込んで自ら義太夫会を催す者、さらには趣味が嵩じてプロの義太夫に転身するものまで居た。
  • 明治の義太夫は、「人形芝居」「素浄瑠璃」「素人義太夫」「女義太夫」それぞれの人気が相まって、極めて広い大衆人気を得ていた。これらの頂点に立つ大阪の人形芝居の方は明治末年/大正初期に急激に衰退した由だが、「素人義太夫」はこれをよそに人気が衰えることが無かった。

4-2.福岡県下の素人義太夫隆盛の様子を伝えるもの

 標題の様子を今に伝えるものだと筆者が実感している「素人浄瑠璃大会番付」「文芸作品」「杉山其日庵の著書」について紹介しておく。

(1)第三回素人浄瑠璃九州大会番付(大正五年十一月調)
 明治40年ころに『九州日報』が福岡県素人浄瑠璃人気投票なるものを行って大盛況を博した由であるが、筆者が香春町在住の研究者・村上利男氏から頂戴した標記の番付のコピーを見た印象は圧倒的であった。その映像を下に示すが、原寸は幅57㎝・縦42㎝ほどの物であるようだ。
大正五年十一月 第三回素人浄瑠璃九州大会番付表
番付右上部分拡大図
 この番附には、一人ずつ「番付位・演目・居所・氏名」が、例えば「前頭・沼津の里・豊前採銅所・本田潮」のように毛筆で書かれており、その人数は次のような多数に及んでいる。
即ち、掲載全人数=447名、内出席者人数=317名、内素人義太夫出演者人数=168名(含む子供の部19名)、これに69名もの師匠連が名を連ねている。
 掲載人名の区分別人数を読み取った表については、をここ TKR15_att-2    から閲覧できます。

 筆者は九州大会がどのように行われたのか(複数日?複数会場?)とか、観客動員数規模とか、出演者や観客の感想とかを伝える資料に接したことはないのだが、いずれにしても物凄い人気であったろうと想像できます。なお、この大会の採点表と評が残されているそうですが、素人浄瑠璃とはいえ厳しい評価がなされているとのことです。

(2)文芸作品
 筑豊における素人義太夫の隆盛の様子を描いた文芸作品としては、火野葦平の「兵隊文楽」(昭和32年刊)と「燃える河」(昭和33年刊)が挙げられる。これらには田川郡に実在する寺、炭坑、伊加利人形芝居が名を変えて登場しているそうである。筆者は「兵隊文楽」の方のみを読んだことがあるが、小説の本筋もさりながら、戦前の庶民層にまで広がった素人義太夫隆盛の様子がよくイメージできると思う。また、これによれば「見台披き」などということも行われていたようである。




(3)杉山其日庵(著)「浄瑠璃素人講釈」
 杉山茂丸(1864-1935;其日庵は彼の戯号)が大正15年に素人義太夫としての立場から著した、義太夫が目指すべき規範を追求した実践的研究書である。義太夫芸の「風(ふう:様式)の研究」の原点であり、後代の太夫や三味線方、研究家に大きな影響を与えたそうである。岩波文庫版編者のひとりは「文楽が十倍面白くなる本」とも。
本書は、岩波文庫版が絶版になっているが古本で容易に入手できる。また下の国会図書館リンクから閲覧できる。    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1016656 
 杉山茂丸は福岡藩士の長男として生まれ、玄洋社に所属した時期もある九州所縁の政治活動家であり、「政治浪人」として明治から昭和初期にかけて国政に関与し続けた人物であるが、彼が「義太夫の通人」としてこの著作とともに斯界で今もって記憶されるまでに大成し得たのは、上述の九州における素人義太夫隆盛の土壌あってのことと言えるであろう。
 上の「・・講釈」とは別に、杉山其日庵述べた素人義太夫の稽古心得15ケ条があります。門外漢の筆者にはこの短い条々は大変興味深い物でした。
この15ケ条はここ  TKR15_att-3  から閲覧できます。[「義太夫大鑑 下巻」(大正6年刊)第5章「稽古の心得」中に収録されている。筆者は村上利男氏『「人形浄瑠璃(文楽)と田川」その三』(郷土田川誌(1993年)所載)の終章に掲載されているものを読んで感銘を受けた。
素人義太夫といえども師匠のもとで大変な稽古をしなければならないことや、芸の奥深さが想像できるかと思う。

 因みに、近代の東京における素人義太夫は、旧公家や政財界の実力者を含む富裕層に広く受容され、貴顕の社交場としての役割を兼ね備える様態なっていたとのことである。(前述の明治41年東京での貝島太助が井上馨を招いた寿宴時のエピソードも、この一コマと言えるかもしれない。)

▼ 本章のまとめ

以上今回の投稿の背景となる「九州の於ける曾ての素人浄瑠璃隆盛の様子」について、筆者が知りえたことの概要を紹介しました。なお、ここでは浄瑠璃隆盛のことに絞って紹介しましたが、人形芝居も大変人気のある芸能で、福岡県下では伊加利人形芝居、今津人形芝居、ほかいくつかが素人が担い手になって今も命脈を保っている由です。



■ 今回投稿分のまとめ

 今回は(その1)に記したことを契機とした筆者の調査に基づき、高宮貝島邸に残されていた「嘉蔵らの浄瑠璃関係の遺品」及び「貝島側史書に見えるエピソードなど」を紹介した。さらにこれらの背景となる「九州に於ける曾ての浄瑠璃隆盛の様子」についても触れた。
 これらにより、嘉蔵の浄瑠璃趣味の実態がどのようなものであったか、かなりの程度想像できるかと思うのだが、読者の皆様は如何であろうか。
 次回は三世・四世津太夫の人と芸について述べることとしたい。



■ 根拠文献に関する筆者メモ(非公開)


2019年6月12日水曜日

TKR_14 嘉蔵と竹本津太夫(その1)

――イントロ と 横山大観筆「霊峰一文字」の話――



イントロダクション


筆者には2015年初頭までは、嘉蔵と竹本津太夫や義太夫との関りについて、次のことぐらいしか頭に入っていなかった。
  •  嘉蔵と津太夫との間柄についての母の口伝――小学校4年生のとき(1951年)祖父が一家を大阪四ツ橋での文楽見物に連れて行ってくれたことがあったが、その時母から「嘉蔵おじいさまは、むかし津太夫少年と肩を並べて義太夫の稽古をしていたことがある。(それもあって)貝島はずっと津太夫を贔屓にしていた。」との話を聞いたことがある。
  • 高宮邸の蔵に保存されていた義太夫見台――1999年長兄が友泉亭に当時の福岡市長他を招いて昼食の宴を持ったことがあるが、その際高宮の蔵から嘉蔵が使ったとかいう立派な義太夫見台を持ち込み、それを使っての小学生による義太夫語りをおもてなしの一つとしたことがある。なかなか感動的な「阿波の鳴門」であった。

然るに2015年初頭に至り、友人から、「箱根の美術館で素晴らしい横山大観の富嶽図の大作を見たが、ガイドの説明ではそれは貝島何某がパトロンになって文楽太夫に送ったものとのことであった。貴君も観に行くべし」との趣旨の連絡を受けた。これが機縁となって色々調べたりするうちに、幸運な出会いなどもあって、素晴らしい芸術や、吃驚するようなエピソードの数々に出会うことが出来ることとなった。
まだまだ全面的な解明には至ってはいないが、次のような段落に随ってこの辺りの話を説明したいと思う。

  1. 横山大観筆「霊峰一文字」の話
  2. 浄瑠璃趣味に関する貝島側の遺品と史書記述について
  3. 三世・四世竹本津太夫の人と芸 並びに貝島が贈呈した梅の見台について
  4. 貝島側記録で分かった嘉蔵らと津太夫との交誼について


【1】横山大観筆「霊峰一文字」の話


前述のように友人からの知らせを受け、20153月、箱根小涌谷にある岡田美術館で大観の大作である「霊峰一文字」を見に赴いた。事前に連絡しておいたところ同館の小林忠 館長から、この作品の来歴や貝島との関係など、館の調査結果の詳しいお話を伺うことが出来た。
この大観の大作富嶽図の迫力・魅力も息を呑むようなものなのだが、この作品制作の由来や、製作後の作品の運命も大変興味深い物であり、且つこれに関わった人間のなかに貝島が登場するところから、以後現在に至るまで筆者が、貝島(就中嘉蔵)の津太夫や義太夫・文楽に係わる事跡を調べる契機となった。
それゆえ、本章ではこの大観筆「霊峰一文字」にまつわる話について、かなり詳しく説明したいと思う。


1-1.作品自体の紹介と概略説明


作品(横山大観 霊峰一文字)の画像 及びその来歴等の概要を以下に示します。
なお、「一文字(いちもんじ)」とは、文楽舞台の上方に置かれる細長い引幕のことです。(舞台上部の諸機構を観客の目から隠すために使用されます。) 作品は現状では表装されていますが、元々は一文字即ち引幕に揮毫されたものです。

▷ 作品の画像
大体どのような作品であるかを把握してもらうため、岡田美術館のHomepageに掲載されている画像を下にコピーしました。やはり本物の迫力・魅力は格別ですので、是非同館に足を運んで鑑賞していただきたいところです。

部分
霊峰一文字
 (れいほういちもんじ)
横山大観(よこやまたいかん)

 大正15年(1926)
 絹本墨画金彩 1卷(付属1卷)
 94.0×873.2cm 

全体

▷ 作品の概要説明

 同館のHomepage上で公開されている本作品の概要説明は以下のとおりです。
約9メートルに及ぶ長大な画面に、涌き起こる黒雲の中から姿を現した霊峰富士の雄姿を描いたもので、大正15年、数え年59歳の横山大観(1868〜1958)が水墨の妙味を発揮して描いた力作です。当時の大阪文楽座の座頭(ざがしら)であった義太夫節の太夫・3世竹本津太夫(たけもとつだゆう 1869〜1941)が、病気全快したことを祝って再帰後の舞台を飾るために描きました。 同年9月15日から始まった『伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』の公演で使用された後、文楽座の火事で危うく焼失するところを、幸運にも免れたという後日談があります。長らく所在が不明であったものですが、再び世に現れて公開の運びとなりました。

▷ 展示環境

 箱根の岡田美術館は201310月、箱根小涌谷にOpenした全5階展示面積約5,000㎡という大規模な美術館。岡田和生が収集した日本・東洋の美術品だそうです。www.okada-museum.com 参照方)  同館2階に、横幅10mにも及ぶこの大作を途中柱なしに、遠くからも近くからも鑑賞できるような、贅沢なスペースと巨大ガラスの展示ケースが用意されています。

1-2.本作品制作・贈呈に関する興味深い物語 及び津大夫の人物像


筆者が20153月に岡田美術館に赴いた時には、小林忠館長と稲墻朋子学芸員が応接して下さり、詳しい説明を伺ったり関連資料コピーを頂戴することが出来た。


▷ 頂いた資料

 頂いた資料の中から次の2点を下に示します。
     2014年の本作品初公開のとき、館長による講演会で使用された「説明メモ」
  (閲覧はここ TKR14_att-1 から)
     大正15(1926)911日付大阪朝日新聞記事「大観画伯が引幕を描く――津太夫の意気と古典芸術のために」(文楽協会『義太夫年表(大正編)』に掲載されたものーーただしこの年表では出典を誤って毎日新聞と記している
  (閲覧はここ TKR14_att-2 から)


▷ 説明を受けた本作品の制作・贈呈に関する興味深い話

② によれば、津太夫の談話として「先月(大正158月)十三日東京の歌舞伎座を打揚げまして、翌十四日、日ごろひいきを蒙ってゐる九州の貝島炭礦王が築地の新喜楽にゐられたのでお禮に參りましたところ偶然にも横山大観さんがお出でになつてゐまして、お目にかゝりました。いろいろ話してゐるうちにすつかり共鳴してしまひまして何か一つ記念にといふところから、かねて貝島さんから私の病気全快祝ひとして頂戴することになつてゐた一文字(舞台の上に吊る幕)に筆をふるって戴くことになったのです。」とある。
筆者としては、上述の母の口伝もあって貝島の名が出て来るところを興奮しながら読んだが、一般には当時59歳で美術界の総帥といった立場の横山大観画伯が当時文楽の座頭であった竹本津太夫と意気投合し、意気に感じて画筆をふるった美談と受け取るべきものと思う。記事によれば大観が「あのまゝにしておけば文楽は滅びますからね。津太夫には前にも會ひました、その態度は気に入ってゐます、つまり彼の意気に感じ、古典芸術のために墨さうと思って承諾したのです」と語った由である。
そして、① によれば、この富嶽図の引幕は大正15(1926)年9月15日からの御霊文楽座盆替り興行で使われた。演目は『伊賀越道中双六(大序よりハッ目まで)』。八つ目の「岡崎」の段までは、鎌倉から始まり、沼津、藤川、岡崎へと旅をする東海道道中双六の趣向であり、富士山の図は劇の内容にふさわしい。なお病癒えた(3世)津太夫は、この公演で最後の岡崎の段のキリを務めている。(三味線は鶴澤道八)

▷ 津太夫の人物像について

また、(3世)津太夫については、名前だけは母の口伝で知っていたが、頂いた資料にて次のような経緯で文楽の世界に入ったことや、芸風の概略などを知ることが出来た。即ち、「津太夫は明治二年、福岡県田川郡香春町に生まれ、本名を村上卯之吉と称した。豊前彦山権現に遠からぬところで育ったのだが十三歳の時志を立てゝ竹本綱尾といふ女義の手蔓で大阪に出で、法善寺に居た二代目津太夫に入門を求めたのだった。(以下略)」明治43年春三世津太夫襲名、大正135月文楽座紋下、昭和1657日没(73歳)。豪快な芸風で、一段中少しもゆるめぬ熱演。剣法知らず人は切れる、といった感じ。床に上がると客を圧倒する。すしや、逆艪等がよく、晩年は沼津等にも味があった。ーーとのことである。


1-3.その後の霊峰一文字の運命


上述の大正159月の御霊文楽座盆替り興業の後、この大観描く富嶽図の引幕は次のような数奇な運命をたどって、岡田美術館が所蔵することとなった。

▷ 御霊文楽座焼失

(贈呈直後の大正15年)1129日午前1148分に文楽座舞台正面の天井裏から出火、文楽座および御霊神社全焼。津太夫らは121日からの広島はじめ中国、九州地方への巡業を前にして、1128日に荷造りした人形、衣裳全部を焼失。わずかに各太夫が持ち出した見台その他各自が運び出していたもの(大観「富士図」幕も含まれる)は類焼を免れた。横山大観と竹本津太夫の交友を記念する、この大観描く富士図の大作にして傑作は、まさに危機一髪のところで、焼失を免れたのであった。

▷ 戦前期におけるこの引幕の使われ方

焼失を危機一髪のところで免れたきこの貴重な引幕が、戦前の舞台でどのように使われ観客らに評価されたかについては、記録が無いようであり、現在までにところ筆者には分かっていない。昭和16年の3世津太夫没後、4世津太夫に相続されたが、戦後の文楽座困窮期にやむに已まれず手放されたということらしいが定かではない。

▷ その後、岡田美術館所蔵となるまで

小林館長でのお話では、この作品は、存在自体は或る白黒写真で知られていたが、長らく行方不明になっており、権威ある大観の作品全集にも収録されていなかったものだそうです。岡田美術館所蔵となるまでには色々の経緯を経ているようだが、そこまでのお話はなかった。この間、引幕は為書きの部分が切り離され、それらが各々表装された形になっている。

1-4.霊峰一文字と貝島の関わりについての筆者の大きな興味


上述の資料①には、彼の新聞記事をもとに【資金主は「九州の貝島炭鉱王」貝島太市】と記されているが、筆者は本当に太市氏であったかどうか疑問に思った。
因みに筆者が疑問に思った理由は以下のとおり。
  • 太助が浄瑠璃天狗と言われるほど義太夫を愛好した由だが既に没しており、大正15年に津太夫と密接な付き合いを持ち得たのは、嘉蔵・健次・太市(筆者の曾祖父・祖父・祖父の弟)の3人である。
  • 健次は大正14年に貝島炭鉱から転じて大阪に貝島乾留株式会社を創立し、その社長となっているので大正15年当時京都又は西宮に起居しており、文楽好きでもあったと聞いていたので、(母の口伝にある少年時代からの縁がある)嘉蔵の意を受けて津太夫に快気祝いを贈ることは自然に思える。
  • 他方、太市が浄瑠璃の稽古をしたり、文楽を愛好したとの話は聞いたことが無かったし、長府に在住して貝島炭礦社長としてその経営に当たっていたのだろうと想像される。(後の調べで実はそうでもなかったらしいことも分かったのだが・・)

作品の迫力・魅力及びその来歴の不思議の興奮しながらも、この引幕贈呈の話は、貝島側の史書には記載がなく、また口伝も聞いたことがないので、筆者は大きな興味を持ち、以後色々調査に深入りするところとなった。
  この深入り調査の結果については、稿を改めて(その2)以降で書いてみたい。



 

 ■ 今回投稿分のまとめ

  
  今回は「嘉蔵と竹本津太夫」と題して4回くらい続く投稿のイントロを述べ、且つ筆者の調査活動の契機ともなった、横山大観筆の大作富嶽図「霊峰一文字」との出会いや これにまつわる話について述べた。






2019年3月10日日曜日

TKR_13 八幡製鉄所溶鉱炉前の記念写真について


一つ前の投稿(TKR_12)にて、20151月の福岡市の公園計画担当係長からの植樹記念碑発見のメールが起点となって色々な歴史的・文化的事物に触れることが出来たことを書いたが、実は同じメールに、前年末の西日本新聞の記事を付して 2点目の質問があり「この写真の中に,貝島太助氏か嘉蔵氏もおられるのではないかと思い,もしお分かりになればご教示いただけませんでしょうか?」とのことであった 
今回はこの写真にまつわる話――貝島太助らが写っていない事情――についてまとめておく。

【1】記事の概要と掲載写真


   送られてきた記事は、「炭鉱主一堂、鉄の絆―八幡製鉄所で伊藤博文と撮影との見出で、概略次のような内容であった。
  • 官営八幡製鉄所の操業前年の1900424日、伊藤博文と井上馨が来所した際に撮影された集合写真があった。(筆者注:教科書等にもよく掲載される有名な写真; 1900年=明治33年)
  • 今般、銀塩ガラス乾板に残された原板をデジタルデータ化したところ、豆粒ほどの顔の判別も可能となり、福岡県筑豊地方の炭鉱主たちが写っていることが特定された。(筆者注:特定された人々の名が下の拡大写真中に記されている)
  • 製鉄所の完成間近という時期に、政治権力の中枢と筑豊の人脈が結集したという意味でも画期的な写真。筑豊の炭鉱主が一堂に会した写真はほとんど残っておらず貴重。

記事とともに掲載された写真を下に付す。

【2】写真中に貝島太助らが居ない事情の発見


 福岡市の担当係長からの質問に答えようと写真を見たが太助や嘉蔵の顔は見当たらず、それではと撮影年月をもとに「太助伝」を調べるうちに、一つ前の投稿にて(伊藤博文お手植えの檜と「占静悟」の書額に関連して)紹介した第十章第四節「侯伯の九州漫遊」に、その答えがあるのを発見した。
 即ち、ここに「明治334月下旬、伊藤博文侯及井上馨伯の九州漫遊は、・・・・而して両元老の斯挙ありしは偏に太助の斡旋尽力にあり」との書き出しで、かなり詳しい両元老の九州漫遊の経緯が記述されているのだが、この写真撮影については次のような記述がある。

  • 前日に太助は直方の自邸に伊藤侯を招いて盛んなる晩餐会を開き、翌424日には、朝 くだんの揮毫とお手植えを戴いた後、太助は侯らとともに直方を発して折尾にて井上伯一行と合流し、その後;
  • 「(若松築港)を視察し、転じて遠賀郡八幡町の製鉄所に至り和田長官の案内にて新営工事の状況を巡視しぬ。・・・かくて最後に当時工事中なる溶鉱炉の礎盤上に相乗り、一行撮影して紀念となせるが・・・・彼(太助)の斡旋奔走甚大にして、終始忙殺され、製鉄所における撮影のごときは、辰三郎等が影中にありしに拘らず、独り彼のみ列外に逸せしほどなりし。」
つまり、上記のデジタル復元写真に筑豊の炭坑主が勢揃いして写っているにも拘らず、太助らが居ないのはこの記述にて合点がいくのである。
<補足注記>
  • 前日の直方太助邸での伊藤侯を主賓とする宴会には六太郎・嘉蔵も陪席していたことが記されている。翌24日の若松築港・八幡製鉄所視察にも六太郎・嘉蔵が同行していたと思われるが、そこまで詳しい記述はない。
  • 引用文中「辰三郎等が影中にありしに・・」と記されているが、これは当時貝島家の家宰を務めていた金子辰三郎(金子堅太郎の弟)のことと思われる。
  • なお、24日の夜は、井上伯を主賓とする宴を直方太助邸で催している。(伊藤侯は下関へ)

なお、「太助伝」の「侯伯の九州漫遊」の節全文は、ここ TKR12_att-3 から閲覧できます。(九州大学石炭研究資料センター 石炭研究資料叢書 No.20「貝島太助伝(稿本)」19993
因みに、この節の結びとして、次の記述があることから推測されるように、なかなか興味深い一節です。
「此行に対する彼(太助)の行為は確かに予期の目的を達し、後年之が顕著の効果を産むに至り、国家の必須事業にして福岡県の二大事業中、製鉄所は素と侯の悦ばず、又た若松築港は伯の喜ぱざりし所なりしと雖も、侯伯今回の来遊は総べての万面に良好の動機を作り、二大事業とも現時の大発展を来し、尚は遠賀川改修問題の如き、鉄道線路延長の如き、悉く其好果を収むるに及び、更に福岡県出身の代議士実業者等をして爾後頻繁に侯伯の門に出入せしめ、以て同県をして天下に雄視せしめたり。」


【3】この写真の歴史的背景


いろいろな歴史的背景
 筆者は、旧八幡製鉄所現地でこの写真の展示や解説を見てはいないが、2017年に萩の明倫学舎にて(世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の展示の一環だったと記憶するが)この八幡製鉄所溶鉱炉前の記念写真を巨大なパネルとした展示を観たことがある。
 この有名な写真には、単に産業遺産的観点から「日本でこのような巨大な溶鉱炉を建造するまでになった」との見方をするにとどまらず、いろいろな興味深い歴史的背景があるようだ。

関連記述がある書籍の紹介
 筆者は特に調べたわけではないが、手持ちの書籍の中に次のような関係記述があることを紹介しておきたい。
      「太助伝」第7章・第1節「製鉄所炭坑買収問題」及び第2節「若松築港」
      永末十四雄「筑豊賛歌」第6章・一「政治への接近」
      朝日新聞西部本社編「石炭史話」の中の「近代産業への歩み」の部のうち、「石炭と製鉄を結び付ける執念」、「八幡に製鉄所誘致成功」「中国から原料炭輸入」の章*
      大野健一「途上国ニッポンの歩み」第6章、1.二つの戦争と「戦後経営」の節*
<注記> * の書籍には、この溶鉱炉前の記念写真(デジタル復元以前)が挿入されている。

  • ①~③には、筑豊の側から見た八幡製鉄所誘致の歴史が書かれている。 上の写真中に顔のある長谷川芳之助・安川敬一郎・平岡浩太郎の三者タッグが八幡誘致成功の立役者であったようだ。他方貝島太助は製鉄所誘致にからむ利害で帝国議会が紛糾する事態の調停のため、井上馨を担ぎ出すなどの尽力をしているが、表には出ていないようだ。
   ① は、ここ TKR13_att-1  から閲覧できます。

  • 他方④ は日本近代化を主として経済史の面から記述した書籍である。ここでは国営八幡製鉄の開業を、(政争の細部に立ち入ることなく)帝国議会開設以来の財政政策の関する論議(財政緊縮で行くか財政拡張で行くか)という流れのなかで触れており、日清・日露戦争のあとに中央政府・地方政府が強力に推進した一連の公共支出プログラムの主要な一例とされている。
      ④は、ここ TKR13_att-2 から閲覧できます。

  • このほかにも、この写真を製鉄技術史、八幡製鉄所史、とか著名人の伝記(伊藤/井上両元老の評伝、安川敬一郎日記などがあろう)の流れの中での一コマとして観ても興味深い話があるのだろうと思う。



【4】付記: 直方の太助邸のこと

直方太助邸(明治31年)
福岡市総合図書館所蔵(古文書目録⑥、番号607より)

 上の明治33年4月に伊藤/井上両侯が相次いで逗留した直方の太助邸とは、現在直方市の多賀町公園となっている場所に在った 伝説的な三層楼の豪邸のことである。
史書にある関連事項を年代順に簡単に記すと、以下のとおりである。
  • 明治22年:太助 負債山積の中、大邸宅新築の工を起こす。(翌年竣工)――余命少なき母親を安心させようとしたと、後年太助が述懐した由。
  • 明治24年3月:井上伯、偶々直方を過るとき、そびえたつ巨屋を見て興味を持ち、本邸に立ち寄り太助と面会す。――これが切っ掛けとなり貝島は一大経営危機から救われることとなる。
  • 明治31年10月:太助、本邸にて考(亡父亡母)の大法要を営む。――西本願寺新門跡大谷光瑞師来訪。(法要記録写真アルバムが現存 = 総図目録⑥、607)
  • 明治33年4月:  伊藤侯・井上伯 九州漫遊の途次 相次いで宿泊、地元炭鉱主や有力者・官公吏等も招き宴を催す。――上述のとおりだが、宴会の模様についてまでは太助伝に記述なし。
  • 明治33年10月:森鴎外、本邸に3泊す。――鴎外の「小倉日記」にかなり詳しい記述あり。


【5】根拠文献に関する筆者メモ(非公開)


2019年3月7日木曜日

TKR_12 邸内の記念碑から蘇る 嘉蔵と明治の元勲との交誼 と往時の文化

――邸内に残された植樹記念碑発見の報を起点として、伝記の記述や記念の文物を通じて嘉蔵と明治の元勲との交誼についてのエピソードが蘇った――


【1】記念碑発見の知らせから史料調べまで

1-1.邸内での植樹記念碑発見の知らせ

 2015年初頭に福岡市の公園計画担当係長からメールを受信。旧高宮貝島邸敷地内に存在する「雑木山」の維持整備をしてくれているボランティアの人からの連絡で現地に赴いたところ、明治の元勲・井上馨お手植えの松の石碑、及び伊藤博文お手植えの檜の石碑と大木に育った檜があったとのことで、下に掲げる写真も添付されて来た。そして石碑には明治何年と刻まれているが、高宮の地所は明治時代から貝島さんのものだったのかとの質問あり。(→ 直ちにそんなことはない、大正末年に購入した地所であることに間違いはないと回答)

表「大勲位井上侯爵記念松」 裏「明治二拾九歳十一月十二日」
表「大勲位伊藤公爵記念檜」 裏「明治三拾四歳五月二十六日」 碑の傍に檜の大木

1-2.植樹記念碑に関する筆者の記憶

 上の連絡に接すると、筆者には高宮邸内のあの雑木山頂上付近の神社社前のスペースにこれらの石碑が存在した幼年期のかすかな記憶が蘇った。正月には祖父をはじめ一家そろってこの神社(高宮神社と称していた)に参詣し、お神酒をいただくのを常としていた。(なお、同じ場所にあってより明確に記憶している「緑色の円い石柱で文字がたくさん刻まれていたもの」の方は失われてしまっているようだ。) しかし、松や檜の植樹そのものが存在していたか否かの記憶はない。
 他方、南八畳前の庭の向う側に、竹矢来の垣に囲まれた植樹(多分松)があった記憶がある。(ただしこの写真はいまだ見つけ得ていない。)

1-3.井上馨お手植えの松に関する史料調べ

   「井上馨の手植えの松」について見知っていた書籍等にて調べなおすと、「貝島会社年表草案」及び「嘉蔵伝」に、嘉蔵(高宮貝島家の初代当主、貝島太助の末弟)が明治29年に直方にて井上馨から松のお手植えをしていただいて大変喜んだ由の記事がある。なお、手植えを受けた嘉蔵邸であるが、明治29年には高宮に移築される前の西尾邸もまだ建設されていない。従って松はまず西尾邸に移植され、次いで邸の移築に伴って高宮に移植されたものに違いないが、石碑の製作年とともに移植の詳細までは不明である。(当時の執事日記にも記事がない)

1-4.伊藤博文お手植えの檜に関する史料調べ

    他方、「伊藤博文の手植えの檜」については「太助伝」に記事があるのを見つけた。即ち、その第十章第四節「侯伯の九州漫遊」に「明治334月下旬、伊藤博文侯及井上馨伯の九州漫遊は、・・・・而して両元老の斯挙ありしは偏に太助の斡旋尽力にあり」との書き出しでかなり詳しい両元老の漫遊の経緯が記述されているのだが、手植えの檜に関しては「此くて二十四日侯は貝島家一族のため扁額を揮毫し、尚は檜、椿の四樹を正門内に手植えし・・・」との行がある。
 さらに、「嘉蔵伝」には、大正4年竣工の西尾の嘉蔵邸(昭和2年に高宮に移築)にて、侯伯手植えの松・檜及び揮毫の扁額を嘉蔵が喜んでいる旨の記述があるので、明治33年に太助邸でなされた手植え・揮毫のひとつを嘉蔵がもらい受け、太助邸→西尾邸→高宮邸へと移されたものと思われる。


【2】お手植えの松の記録と 現存する短冊挟について


2-1.史書の記述紹介

   嘉蔵が井上馨伯よりお手植えの松を受けた明治29年は、本ブログ TKR_05 の【2】1)項に記述したように、貝島炭礦にとっては日清戦争による炭価高騰もあって利益を上げ、毛利家に対する負債を償還して鉱区の名義及び実権を回復 した年であり、嘉蔵(同年40歳)にとっては失明後にも拘らず、炭坑現場で辣腕を振るい始め、買収した大辻炭坑の坑長に就任した年に当たります。 
 また、これより先の明治24年、貝島の炭坑は負債山積して経営危機に陥り、井上馨の力添えにより毛利家の資金の融資を受けて救われるという歴史があるのですが、この過程で次のようなエピソードがあり、嘉蔵は井上侯の知遇を受けます。 即ち、嘉蔵経歴小観(M37年実業之日本誌所載;本ブログ TKR_03より閲覧可能)に、
明治二十三四年の交下関に到れる時、彼は親族惣代として太助と同行し、伯を大吉楼に訪ひ、貝島家一切の事業に対する意見を陳述せしに、終始傾聴せる伯は彼が企画の正鵠を得たるのみならず、又た彼が心術の純良なるに感じ、徐に坐を進めて彼の手を握り、『君が盲眼は其身に取りて此上なき不幸に相違なし、然かも兄太助の為めには幸なり、君為めに専心一意斯業に従事す、今後我が援助を与ふるは、兄太助の人と為りを信ずると同時に、併せて君が人と為りを信ずるを以てなり』と語り茲に援助の約は成れり。
とあります。

 そして明治29年のお手植えの松を受けた場面と祝いの和歌については、次のように記述されています。
嘉蔵経歴小観(M37年実業之日本誌所載)より抜粋
 
   また、このお手植えの松を受けて数年後の撮影だと推定されるが、嘉蔵経歴小観(M37年実業之日本誌所載)には下の写真が収録されている。(お手植えを受けた当時の雰囲気が分かるような気がするが、どうであろうか)


2-2.お手植えの松に各界から寄せられた和歌と現存する短冊挟み 


短冊挟の再発見
 上の史書にある各界から寄せられたお手植えの松に因む祝いの和歌の記事を読み返して、筆者は、平成15年の高宮の蔵整理時に福岡市総合図書館に預けた古文書類の中に「短冊挟」の名の箱があったのを思い出し、同館に赴いて見分したところ、正にこの時に寄せられた詠(うた)270首の短冊がアルバム状に収められたものであることが分かった。保存状態は良く、金地の短冊もあって魅力的な品であった(全点写真撮影済みである)。

短冊挟を開いたところ(二例示す)
短冊の左下の台紙に、詠み人の氏名等が記されているものが多い
 嘉蔵の詠四首の読解
短冊に書いてある和歌の文字は(万葉仮名も交じっており)筆者のような素人には全く読むことが出来ないが、末尾の短冊4点は嘉蔵の作であることが分かった。これだけでも是非詠の内容が知りたいものと友人に相談したところ、幸いにも久留米大学附設高校教頭の名和先生が読み解いて下さった。その読解結果をここ、TKR12_att-1 に示す。
美しいが読めなかった短冊の映像イメージとともに「梢ふく風の音にもしるきかな 貴き恵みの松の栄を」といった読み解かれた詠に接すると、曾祖母ヒロが嘉蔵の傍らで短冊に書き取ったり読み聞かせたりする情景や、艱難辛苦に満ちた半生を乗り越えて来た二人の喜びが目に浮かぶようで、感じ入ることしきりであった。


 このほかの多数の和歌の読解
その後、この4首以外の多数の和歌についても、全体の2割あまりに当たる63につき、東京大学大学院博士後期課程在籍で近世・近代文学研究者の川下俊文氏を煩わせて読み解いていただくことが出来た。そして次のような見分結果概要を知らせてくれた。(H28年8月)

一通り読んでみましたところ、和歌の内容はすべて、貝島家が松とともに末永く栄えることを祈願したものです。
注目すべき作者としては、
前田利声(第12代富山藩主)、久我建通(幕末の内大臣)、松平慶永(春嶽、第16代越前藩主)、津軽承昭(第12代弘前藩主)、
江藤正澄(出雲大社神官・国学者)、鈴木重嶺(佐渡奉行・歌人)、園八尋(阿倍野神社宮司・国学者)、大井菅麿(井伊谷宮宮司・国学者)、
島地黙雷(浄土真宗本願寺派僧侶)、足利義山(浄土真宗本願寺派僧侶)、千家尊福(出雲大社宮司・司法大臣)
そのほか、福岡県は当然として、なぜか隠岐と石川県の作者が多いようです。
歴々の有名人から名もなき一般人まで、どうして和歌を寄せることになったのか、不思議なものです。

 嘉蔵が和歌をたしなむまでになったことも驚きであるが、郵便しか通信手段がない時代に、こんなにも広い地域の幅広い貴賎の人々が共感して祝いの詠(うた)を寄せてくれたということも大変驚異的に思える。――「題詠」ということだったのだろうかとも思うが、往時の文化レベルの高さがしのばれ、大変興味深い。


2-3.川下氏読解結果のレビューなどについて


 川下氏読解結果の筆者レビューとその抜粋
今回 本ブログ作成に当たり、上の63首の読解結果テキストを川下氏から提供いただいた。テキストは、各々の和歌につき[詞書][短歌][作者]及び(判る人物については)簡単な人物紹介が列挙された周到なものである。そしてこれを筆者なりにレビューして、次の「5つの興味深い項目」につき該当する和歌12首を抜粋してみた。この12首はここ TKR12_att-2 から閲覧できます。
この「5つの興味深い項目」とその説明を下に記します。

1)「嘉蔵伝」に掲載されている和歌: 
嘉蔵自身のもの、久我侯のもの、大谷光尊伯のものが掲載されているが、光尊伯のもの以外の2首はこの短冊挟に収められていることが判明。
2)貴顕紳士の和歌: 
前田利声(第12代富山藩主)、島地黙雷(浄土真宗本願寺派僧侶)、津軽承昭(第12代弘前藩主)らのものを例示しておいた。
3)手植松の祝いかどうか不確かだが 興味深い作者の詠: 
[詞書]などから手植松祝いではなさそうだが、松平慶永(春嶽、第16代越前藩主)、鈴木重嶺(佐渡奉行・歌人)、及び三遊亭円朝の句と思われるものが短冊挟に収められていた。(なお、春嶽の没年は、手植えの年・明治29年より前である。三遊亭円朝は井上馨の家に出入りしていたことが知られている。)
4)嘉蔵の人となりを知って詠んだと分かる和歌: 
これほどの数の祝いの詠が寄せられたということは、嘉蔵の人となりについても各作者に伝えられたのだろうと想像されるが、そうであったことが[詞書]などで読みとれる和歌は意外と少ない。この抜粋に収録した江藤正澄(出雲大社神官・国学者)のものは、これに該当する数少ない例である。
5)作者が何処で手植え松を見たか明示されている和歌:
多くの和歌は遠隔地で詠まれ、作者はお手植えの松の現物を見てはいないと考えられる。また詠まれた時期はお手植えの明治29年から数年間以内のものが殆どと思われる。そのような中で少数ながら、随分後の時期になって西尾邸(大正4年に完成披露)または高宮邸(昭和2年に移築完了)にて、記念の松を見て詠んだと明示されている詠も見つかった。


 和歌を寄せてくれた一般人の名
前述のように、市井の一般人と思われる方々からも多数の祝いの和歌が寄せられたことは驚くべきことであり、どのような人的ネットワークが存在したのかは興味深いところです。その点が解明される期待もあって短冊挟に付された作者名タブの記事を以下に掲載しておきます。

もしご子孫の方などで、ここにあるお名前をご存知の方は、是非筆者に連絡いただきたいと存じます。

筑前/池浦晴吉、筑前/日並永通、筑前福岡/滝迅郎、筑前/安永六郎、筑前/安田耕作、筑前/高原八代子、筑前/藤井惣三郎、筑前朝倉郡/入江直太郎、筑前福岡/勲八等 宗徳雄、福岡/岡沢麟太郎、福岡/平山乕雄( x 2)
筑後/中垣祐之、筑後三潴郡/吉田実、筑後三潴郡/酒見恒蔵、筑後久留米/宅原武三郎、豊前/明石忠次郎( x 2)、豊前/寉田住蔵、豊前/青柳筑摩、豊前/大森政方
加賀/瓜生近就、石見/桜井彀、越前/朝比奈祐禧、石川県/三輪三隠、石川県/高畠米護、石川県/笠森艶子
隠岐/佐藤貞五郎、隠岐/大西元祐、隠岐/寛信、隠岐/久麿、隠岐/松浦荷前( x 2)
尾張/伊藤秀親、三河/木俣周平、三河/桜部大梁
下野/頼高熊三、東京/加藤、大阪市/佐々木美比古、山口県長門国/高橋卓夫
別に(作者名なし)x 10



【3】伊藤侯お手植えの檜の記録と 同時に頂いた現存する書額


31.史書の記述紹介

前述のように、嘉蔵が戴いたお手植えの檜は、伊藤侯・井上伯の明治33年の九州漫遊の際、直方の貝島太助邸に逗留した伊藤博文が、同424日、「侯は貝島家一族のため扁額を揮毫し、尚は檜、椿の四樹を正門内に手植し、」と「太助伝」に記されたものの一つである。(なお、この短い行以外には伊藤侯の手植や揮毫の時の情景が記述された文書は残されていないようである。
 おって、「太助伝」のこの「侯伯の九州漫遊」の節は、ここ TKR12_att-3 から閲覧できます。(九州大学石炭研究資料センター 石炭研究資料叢書 No.20貝島太助伝(稿本)19993

3-2.植樹と同時に頂いた現存する書額

上述のように植樹と同時に貝島一族は伊藤侯から扁額に揮毫を戴いているが、其のうち嘉蔵が戴いたものが現存している。(福岡市総合図書館所蔵。古文書資料目録⑥、高宮貝島本家取集資料 番号4
即ち、「占静悟」がそれであり、下に写真を示します。(以下の書額の写真はいずれも市への譲渡前に当方にて撮影したもの



「占静悟 庚子初夏 博文」と書かれており、読みは「セイゴをシム カノエネの初夏 博文」。「占静悟」は禅語であるらしいのですが現在までのところ筆者にはその出典や意味を明らかに出来ていない。庚子は明治33年のことであり史書と符合する。
嘉蔵と伊藤博文との間の交誼の記録は、上の明治334月のイベントの時以外残されていないようであるが、嘉蔵が福岡の鉱業家を一団として政友会支持でまとめることに尽力した経緯があるので、書状のやり取りはかなりあったのかもしれない。嘉蔵はこの「占静悟」の書額を大切にし、終生自邸の本座敷に掲げていたようである。(次節の写真参照)


【4】お手植えの松・檜や 記念の文物を喜ぶ様子


4-1.「嘉蔵伝」にある記述の紹介と 関連写真

大正7年に出版された吉村誠著の「嘉蔵伝」(本ブログTKR_01にてその録音図書を収録)の最終節である「暗夜時計」の節の中に、次のような記述がある。前段は明治31年、後段は大正6年ごろ西尾邸での情景であり、嘉蔵がお手植えの松・檜や 記念の書額などを(頂いた数年後に)喜んでいる様子が表現されている。


この記述から、西尾邸においては本座敷から見える位置にお手植えの松・檜が並んで植えられていた模様であること、「占静悟」ほかの書額が本座敷(=移設されて高宮に現存している本座敷)に掲げられていたことが分かる。

 下の写真は「占静悟」の書額も見える西尾邸本座敷の写真である。


4-2.その他の書額について

上掲の「嘉蔵伝」にあるその他の書額についても、録音図書製作の過程でそれぞれの読みや意味について川下氏より教示を受けた。

●「直養心精守業 為嘉蔵貝嶋 誡 世外」の写真を下に示す。
読みは「スグニ心ヲ養イ クワシク業ヲ守レ 嘉蔵貝島ノ為ニ カイ  セガイ」である。誡は "いましめ" の意、世外は井上馨の号。意味は、「まっすぐに善心を養い、精密に家業を維持せよ」 


●「致其知 戊申春 東郷書」の写真を下に示す。
読みは「ソノ知ヲ致ス ツチノエサルの春 東郷書す」、典拠は「大学 経一章」、「ツチノエサル」は明治41 年、東郷は東郷平八郎
「大学 経一章」の当該部分とその意味は、下記URLから見ることが出来る。 
     https://kanbun.info/keibu/daigaku01kei.html
 詩吟でも詠われる一章であるようだが、当時の人たちは「致其知」と見れば、その前後を含めた詞をすぐに想い起こして意味を了解することが出来たのであろうか。東郷元帥と嘉蔵の交誼についてはよく判っていないが、日本海海戦で(カージフ炭のみならず)大之浦炭が活躍したとかで、貝島が感謝状を受けたと聞いている。

4-3.明治の元勲らとの交誼の全般について

  • 昭和10 年の高宮本邸に於ける嘉蔵の葬儀には、伊藤公爵・井上侯爵の代理の方が来られた記録がある。明治の元勲であり手植記念碑のあるご両所との浅からぬ交誼を裏付けているものであろう。
  • また、上の二つの書額も「占静悟」とともに総合図書館が所蔵しているが、同様の錚々たる人物の筆による作品は、総計49点(書跡・額装29点、書跡・掛15点、書跡・巻子装1点、絵画・額装4)に及んでおり、これらについても読み解くことが出来れば面白いものもあるかもしれない。(いずれも福岡市に譲渡済みで同館が所蔵、同館資料目録の解説ページをここ TKR12_att-4  に示す


【5】まとめ

 以上、2015年に植樹記念碑が雑木山の中から見つかったとの知らせを受けたことが契機となって、史書を調べたりしているうちに再認識した興味深い歴史的経緯や、現存している魅力的な文物(手植の短冊挟 及び 明治の元勲らの書額など)について紹介した。色々写真などを挿入したが、このような話に興味を持つ人が現れて更なる研究が進めば嬉しいと思っている。


【6】付言 

  • 井上馨は貝島の創業の大恩人とされ、家憲制定(明治42年)をしてもらうなどしている。井上の嘉蔵の評価は高かった模様であるし、嘉蔵も終生井上侯を大変尊敬し続けたようである。しかし、井上馨と貝島家の交誼は問題も多く、ある書籍には「一時代を経過してみれば伝説化された創業の大恩人井上馨も、じつは疫病神でしかなかったのである。」と書かれているほどである。この辺りについては、別の投稿で触れてみたいと思っている。
  • 高宮公園の中に市登録文化財として残される本座敷に、上掲の書額のレプリカを掲げるなど往時の和風のしつらえを再現し、且つ短冊挟の展示するなどもしながら、邸内雑木山に現存する記念碑や嘉蔵伝(録音図書もあり)などと関連付けて解説するなどすることにより、来場者に嘉蔵夫妻の手植松を賜った喜びに共感できるよう誘ったり、明治の近代化時の文化の一面として紹介したりすることが出来るのではないだろうか。またそのような運営が、邸の歴史的・文化的価値の発現という市が公募要綱に示した意図に沿う運営の一例となるのではないかと思うが、如何であろうか。

【7】根拠文献等に関する筆者メモ(非公開)

TKR_16 嘉蔵と竹本津太夫(番外)

ーー国立文楽劇場での特別展示ーー 2019年9月28日より11月24日までの期間、国立文楽劇場(大阪)にて特別企画展示「紋下の家 ―竹本津太夫家に伝わる名品ー 」が開催されています。 今回はこの展示のうち貝島家に関係する部分を中心に展示の概要を説明します。 ...