2019年3月10日日曜日

TKR_13 八幡製鉄所溶鉱炉前の記念写真について


一つ前の投稿(TKR_12)にて、20151月の福岡市の公園計画担当係長からの植樹記念碑発見のメールが起点となって色々な歴史的・文化的事物に触れることが出来たことを書いたが、実は同じメールに、前年末の西日本新聞の記事を付して 2点目の質問があり「この写真の中に,貝島太助氏か嘉蔵氏もおられるのではないかと思い,もしお分かりになればご教示いただけませんでしょうか?」とのことであった 
今回はこの写真にまつわる話――貝島太助らが写っていない事情――についてまとめておく。

【1】記事の概要と掲載写真


   送られてきた記事は、「炭鉱主一堂、鉄の絆―八幡製鉄所で伊藤博文と撮影との見出で、概略次のような内容であった。
  • 官営八幡製鉄所の操業前年の1900424日、伊藤博文と井上馨が来所した際に撮影された集合写真があった。(筆者注:教科書等にもよく掲載される有名な写真; 1900年=明治33年)
  • 今般、銀塩ガラス乾板に残された原板をデジタルデータ化したところ、豆粒ほどの顔の判別も可能となり、福岡県筑豊地方の炭鉱主たちが写っていることが特定された。(筆者注:特定された人々の名が下の拡大写真中に記されている)
  • 製鉄所の完成間近という時期に、政治権力の中枢と筑豊の人脈が結集したという意味でも画期的な写真。筑豊の炭鉱主が一堂に会した写真はほとんど残っておらず貴重。

記事とともに掲載された写真を下に付す。

【2】写真中に貝島太助らが居ない事情の発見


 福岡市の担当係長からの質問に答えようと写真を見たが太助や嘉蔵の顔は見当たらず、それではと撮影年月をもとに「太助伝」を調べるうちに、一つ前の投稿にて(伊藤博文お手植えの檜と「占静悟」の書額に関連して)紹介した第十章第四節「侯伯の九州漫遊」に、その答えがあるのを発見した。
 即ち、ここに「明治334月下旬、伊藤博文侯及井上馨伯の九州漫遊は、・・・・而して両元老の斯挙ありしは偏に太助の斡旋尽力にあり」との書き出しで、かなり詳しい両元老の九州漫遊の経緯が記述されているのだが、この写真撮影については次のような記述がある。

  • 前日に太助は直方の自邸に伊藤侯を招いて盛んなる晩餐会を開き、翌424日には、朝 くだんの揮毫とお手植えを戴いた後、太助は侯らとともに直方を発して折尾にて井上伯一行と合流し、その後;
  • 「(若松築港)を視察し、転じて遠賀郡八幡町の製鉄所に至り和田長官の案内にて新営工事の状況を巡視しぬ。・・・かくて最後に当時工事中なる溶鉱炉の礎盤上に相乗り、一行撮影して紀念となせるが・・・・彼(太助)の斡旋奔走甚大にして、終始忙殺され、製鉄所における撮影のごときは、辰三郎等が影中にありしに拘らず、独り彼のみ列外に逸せしほどなりし。」
つまり、上記のデジタル復元写真に筑豊の炭坑主が勢揃いして写っているにも拘らず、太助らが居ないのはこの記述にて合点がいくのである。
<補足注記>
  • 前日の直方太助邸での伊藤侯を主賓とする宴会には六太郎・嘉蔵も陪席していたことが記されている。翌24日の若松築港・八幡製鉄所視察にも六太郎・嘉蔵が同行していたと思われるが、そこまで詳しい記述はない。
  • 引用文中「辰三郎等が影中にありしに・・」と記されているが、これは当時貝島家の家宰を務めていた金子辰三郎(金子堅太郎の弟)のことと思われる。
  • なお、24日の夜は、井上伯を主賓とする宴を直方太助邸で催している。(伊藤侯は下関へ)

なお、「太助伝」の「侯伯の九州漫遊」の節全文は、ここ TKR12_att-3 から閲覧できます。(九州大学石炭研究資料センター 石炭研究資料叢書 No.20「貝島太助伝(稿本)」19993
因みに、この節の結びとして、次の記述があることから推測されるように、なかなか興味深い一節です。
「此行に対する彼(太助)の行為は確かに予期の目的を達し、後年之が顕著の効果を産むに至り、国家の必須事業にして福岡県の二大事業中、製鉄所は素と侯の悦ばず、又た若松築港は伯の喜ぱざりし所なりしと雖も、侯伯今回の来遊は総べての万面に良好の動機を作り、二大事業とも現時の大発展を来し、尚は遠賀川改修問題の如き、鉄道線路延長の如き、悉く其好果を収むるに及び、更に福岡県出身の代議士実業者等をして爾後頻繁に侯伯の門に出入せしめ、以て同県をして天下に雄視せしめたり。」


【3】この写真の歴史的背景


いろいろな歴史的背景
 筆者は、旧八幡製鉄所現地でこの写真の展示や解説を見てはいないが、2017年に萩の明倫学舎にて(世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の展示の一環だったと記憶するが)この八幡製鉄所溶鉱炉前の記念写真を巨大なパネルとした展示を観たことがある。
 この有名な写真には、単に産業遺産的観点から「日本でこのような巨大な溶鉱炉を建造するまでになった」との見方をするにとどまらず、いろいろな興味深い歴史的背景があるようだ。

関連記述がある書籍の紹介
 筆者は特に調べたわけではないが、手持ちの書籍の中に次のような関係記述があることを紹介しておきたい。
      「太助伝」第7章・第1節「製鉄所炭坑買収問題」及び第2節「若松築港」
      永末十四雄「筑豊賛歌」第6章・一「政治への接近」
      朝日新聞西部本社編「石炭史話」の中の「近代産業への歩み」の部のうち、「石炭と製鉄を結び付ける執念」、「八幡に製鉄所誘致成功」「中国から原料炭輸入」の章*
      大野健一「途上国ニッポンの歩み」第6章、1.二つの戦争と「戦後経営」の節*
<注記> * の書籍には、この溶鉱炉前の記念写真(デジタル復元以前)が挿入されている。

  • ①~③には、筑豊の側から見た八幡製鉄所誘致の歴史が書かれている。 上の写真中に顔のある長谷川芳之助・安川敬一郎・平岡浩太郎の三者タッグが八幡誘致成功の立役者であったようだ。他方貝島太助は製鉄所誘致にからむ利害で帝国議会が紛糾する事態の調停のため、井上馨を担ぎ出すなどの尽力をしているが、表には出ていないようだ。
   ① は、ここ TKR13_att-1  から閲覧できます。

  • 他方④ は日本近代化を主として経済史の面から記述した書籍である。ここでは国営八幡製鉄の開業を、(政争の細部に立ち入ることなく)帝国議会開設以来の財政政策の関する論議(財政緊縮で行くか財政拡張で行くか)という流れのなかで触れており、日清・日露戦争のあとに中央政府・地方政府が強力に推進した一連の公共支出プログラムの主要な一例とされている。
      ④は、ここ TKR13_att-2 から閲覧できます。

  • このほかにも、この写真を製鉄技術史、八幡製鉄所史、とか著名人の伝記(伊藤/井上両元老の評伝、安川敬一郎日記などがあろう)の流れの中での一コマとして観ても興味深い話があるのだろうと思う。



【4】付記: 直方の太助邸のこと

直方太助邸(明治31年)
福岡市総合図書館所蔵(古文書目録⑥、番号607より)

 上の明治33年4月に伊藤/井上両侯が相次いで逗留した直方の太助邸とは、現在直方市の多賀町公園となっている場所に在った 伝説的な三層楼の豪邸のことである。
史書にある関連事項を年代順に簡単に記すと、以下のとおりである。
  • 明治22年:太助 負債山積の中、大邸宅新築の工を起こす。(翌年竣工)――余命少なき母親を安心させようとしたと、後年太助が述懐した由。
  • 明治24年3月:井上伯、偶々直方を過るとき、そびえたつ巨屋を見て興味を持ち、本邸に立ち寄り太助と面会す。――これが切っ掛けとなり貝島は一大経営危機から救われることとなる。
  • 明治31年10月:太助、本邸にて考(亡父亡母)の大法要を営む。――西本願寺新門跡大谷光瑞師来訪。(法要記録写真アルバムが現存 = 総図目録⑥、607)
  • 明治33年4月:  伊藤侯・井上伯 九州漫遊の途次 相次いで宿泊、地元炭鉱主や有力者・官公吏等も招き宴を催す。――上述のとおりだが、宴会の模様についてまでは太助伝に記述なし。
  • 明治33年10月:森鴎外、本邸に3泊す。――鴎外の「小倉日記」にかなり詳しい記述あり。


【5】根拠文献に関する筆者メモ(非公開)


  1. 西日本新聞当該記事(2014年12月30日)       TKR13_att-91 
  2. 永末十四雄「筑豊賛歌」第6章・一「政治への接近」   TKR13_att-92
  3. 朝日新聞西部本社編「石炭史話」の中の「近代産業への歩み」の部のうち八幡製鉄関係の章                 TKR13_att-93
  4. 直方太助邸説明年譜の出典_「太助伝」目次      TKR13_att-94
  5. 妣大法要関係の文献             TKR13_att-95
  6. 森鴎外来訪関係の文献                TKR13_att-96 

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