2018年9月8日土曜日

TKR_10 友泉亭庭園について(その2)

今回は前回(その1) につづいて、友泉亭庭園に嘗てあった黒田家お居間(江戸期遺構)と、そこに新調した杉戸に健次が描かせた松永冠山の杉戸絵について、筆者が知るところを根拠文献を紹介しながら記述したい。

【1】黒田家お居間(江戸期遺構)について


 黒田家お居間(江戸期遺構)が、昭和53年以後の福岡市による公園整備時に取り壊される前までは友泉亭に存在していた。現在はその礎石が(大広間の東南方に)残され、次のような立て看板がぽつんと置かれているのみである。
曰く「別 邸 跡  この地は黒田藩二百七十余年の治世の中で名君と称えられた継高公が建造した別邸(別館)跡である。 筑前國続風土記附録にみる友泉亭 及びここに残る一群の礎石からみると 館は池に続いて数棟の建物が並び 質素で実用的なものであったと思われる。 しかし四季の景観には捨てがたい趣があったと言われている。 福岡市」

 この立札の文言から「別館」即ちここにあった黒田家お居間(江戸期の遺構)などをイメージできる人はいないのではないだろうか。下に示す写真や図などを金属プレートに焼き付けて立て札付近に置けば、来園者も遺構のイメージが出来て往時に思いを馳せることも出来るのではないだろうか。(それとも現代では QRコードを表示し、スマホで写真を見たり 説明を聴いたり出来るようにすべきか?)
  • 筑前國風土記附録にみる友泉亭の図は、前回紹介した TKR09_att-1 を参照方。
  • 昭和初期に撮影された黒田家お居間の写真は、下を参照方。
    昭和初期の黒田家お居間の外観(南東から眺めたもの)
    • 上の黒田家お居間の解体直前の実測図は、ここ TKR10_att-1  を参照方。

    【2】松永冠山の友泉亭杉戸絵の話


    2-1.イントロ


    杉戸絵 睡蓮図
    この章では健次が描かせた松永冠山の杉戸絵について説明します。
    • 現状の友泉亭ではこの杉戸絵のことは何も触れられておらず、図像展示もないが、上の取り壊されてしまった黒田家お居間(江戸期遺構)には、昭和10~11年に健次が松永冠山に制作依頼して描かせた杉戸絵(67枚)があった。
    杉戸絵 竹に枇杷図

    • この杉戸絵はお居間解体とともに失われたものと思われていた。
    • しかるにその内30点が、近年奇蹟的に発見されて現在福岡市博物館に所蔵され、冠山の代表作として高い評価を受けている。
    杉戸絵自体も大変すばらしいものと思いますが、これにまつわるエピソードも興味深い物だと思います。

    2-2. 松永冠山の杉戸絵


     発見された松永冠山の杉戸絵は、平成11年に市博物館の「旧友泉亭の杉戸絵展―松永冠山の花鳥画―」として展示・公開されました。(発見された全52面の内、30面を前・後期に分けて展示)
     その時のパンフレットは、ここ TKR10_att-2  をご覧ください。しかし、それ以後は現在までのところ残念ながら展示されておりません。
     この時撮影された何枚かのカラー写真のコピーをここに例示します。 TKR10_att-3  (閲覧のみ可能な pdf ファイルです)


    2-3. 松永冠山のこと(上記展覧会パンフレットより抜粋)


    松永冠山
    作者 松永冠山(18941965)は福岡県前原市生まれの日本画家です。糸島郡立農学校の第一学年を終了後に、画家になることを志し、京都に出て京都市立絵画専門学校に学びました。大正九年(1920)に同校の研究科を終え、その後も京都に留まり、日本画家で当時一家をなしていた菊池契月(きくちけいげつ)に師事しました。
     冠山は在学中から文展に入選をはたし、主に風景を題材とした清新な作品が評価され文展に代わった帝展においてもたびたび人選するなど、いわば将来を嘱望された新進の日本画家として京都で活躍しています。
     そうした冠山が昭和十一年(1936)に当時友泉亭の所有者だった貝島家から依頼されて描いたのがこれらの作品。まだ京都で活動していた彼は、膨大な数の障壁画を完成させるために、一年間も友泉亭に住み込んで制作に専念することになります。

    2-4. 友泉亭杉戸絵制作にまつわるエピソードなど


    昭和33年糸島新聞に掲載された「冠山物語」によると、この杉戸絵制作については次のような健次とのエピソードがあったとのことです。

     「冠山物語  怡東土邨」 より
       (前略)
    友泉亭

     その頃早良郡の樋井川村が福岡市に合併することになり、役場に使っていた「友泉亭」という建物が売りに出た。友泉亭は福岡城の南方3キロの処にある。館主黒田公の別邸だったが、廃滞置県で樋井川村に寄付したものだった。広々とした庭園には丘あり泉水ありの並びなき豪華な屋敷であり、建物である。それを貝島健次が買い取って別荘にした。建物は古かったが、これを新築同様の金をかけすっかり修復し、むかし板戸になっていた所は全部杉の1枚板に替え、これに冠山の揮毫を依頼してきた。
     冠山は3ケ月で完成させるという注文で仕事に掛かったが、もしこれが後日文化財にでも指定されるということになればと、彼は11草もゆるがせに出来なかった。14枚つづきの松の間などあまねく附近を尋ねまわり、ようやく生の松原に画材をえて丹念に写生し、それによって構図をたてて制作に乗り出した。
     松の間、竹の間、桜の間、蓮の間、それに廊下には四季の草木を描くことにした。しめて67枚の板戸であった。
     貝島家では画の出来しだい別荘びらきをするというので矢の催促であったが、3カ月の予定が半年となり、8カ月となり、とうとう1年になって初めて完成した。初めは健次も時々覗きにきたが、余り長びくのですっかり腹を立て寄りつかなくなっていた。
    さすがに別荘びらきには冠山も招かれた。知事、市長をはじめ県下の知名士は殆ど出席したが、大部分は建築や庭園には見向もせず、冠山の絵に集まっては感嘆の声を放った。健次が
    3カ月の予定が1年もかかったのでお招きが遅れてすみません」
    と述べると、異句同音に
    「これだけの絵が3カ月や半年で出来るはずがない。1年かかったことは当然であり、永久に残る文化財ですよ」
    と称賛したので、健次の機嫌もすっかりなおった。
       (後略)

    2-5. 中山喜一朗氏による「友泉亭杉戸絵の復元研究」について


    市博(当時)の中山喜一朗氏は、発見された30点の杉戸絵をもとに、綿密な(旧友泉亭黒田家お居間を飾った当時の)復元研究をされ、福岡市博物館 研究紀要 13号 (2003年)に所論を掲載されている。
    復元研究はお居間の実測平面図と杉戸絵が写されているお居間内部の写真三葉(白黒写真、高宮貝島家に残されていた)を主たる手掛かりとして進められたが、その結果発見された杉戸絵30点(52面)のほぼ正確な設置位置が復元された。また、復元の結果67枚もの杉戸が設置できるスペースはなく、67面の杉戸絵の誤りであった可能性が高いことも明らかにされた。(だとすると、80%の絵が無事残されたこととなる。なお杉戸67枚というのは「松永冠山展(昭和63年)」の図録記事によるもの)

    因みに、冒頭に「奇跡的に発見された」と書いたのは、この中山氏所論にも記されているように、次のような事情によるもの。
     ・旧友泉亭黒田家お居間解体時に、市職員の誰かの機転で杉戸絵が廃却されずにどこかにしまわれた。
     ・倉庫の変転はあったかもしれないが、平和台球場の取り壊しの際に、たまたま球場の倉庫から杉戸絵が見つかり、またも職員の機転でしかるべき専門家が見分するところとなり、失われたと思われていた旧友泉亭の杉戸絵であることが判明した。
     この奇蹟的な発見の現場のおられた市職員の方は、現在は既に退職されていると思うが、発見の思い出話などを聞かせて頂きたいものである。

    2-6. 友泉亭杉戸絵に係る最近の動き


      前述の平成11年の福岡市博物館での「旧友泉亭杉戸絵展」以後、松永冠山の展覧会は開かれることが無かったようですが、平成30年1月に至り糸島市伊都郷土美術館にて「松永冠山素描展」が開催されました。本素描展に際し冠山のご子息松永寿人氏より膨大な素描を寄贈頂いたとのことです。
    他方、本年(平成30年)8月、筆者の願い出により市博物館より原板使用の許可を受けて、博物館所有の友泉亭杉戸絵の写真フィルム映像全部の高精細デジタル映像を取得することが出来ました。取得した映像を大型液晶TVモニターに映したところ、絵自体も杉戸の木目も大変素晴らしく感じ入っているところです。
     現在、中山氏復元研究成果に沿って、この映像を黒田家お居間に設えた形の3Dデジタルモックアップに構成すべく取進めているところです。その後関係者にも見て頂いて相談の後、この高精細画像を公開できるよう市博に願い出ることが出来ればと考えているところです。


    【3】その他の貝島健次・友泉亭・松永冠山関連情報


    3-1. 貝島健次と地方画家


     高宮貝島本家二代目当主である健次は、絵画の収集も趣味の一つとし、自らも「高宮山人」と号して花鳥画のようなものを描いていた時期があります。福岡の地方画家とりわけ水上泰生と松永冠山を贔屓にしていたため、両者の作品はかなりの数が残されています。
     健次と両画家の交誼は、勿論画業を高く評価していたからでしょうが、水上泰生とは中学修猷館で同クラスの間柄であったことが、また松永冠山とは親戚の貝島永二氏が冠山が未だ画学生であった頃から贔屓にし援助を与えていたことが機縁になっているものと思われます。
     健次と冠山との間の交誼については、健次の書簡や執事日記の中に記事が散見されます。冠山が友泉亭に泊まり込みで杉戸絵を描いていた時分に高宮本邸を訪れて健次夫人の竹子に絵を教えたとの記事もありました。なお、冠山が昭和19年郷里の糸島に疎開したのち、京都に還らなかったこともあり、健次と冠山との親交は、戦後も健次が没するまで続いています。

    3-2. 友泉亭別荘披きについての補足情報


     前章で「冠山物語」の関係記事を紹介しましたが、ここで二三の補足情報を紹介します。
    友泉亭別荘披き前後の高宮本邸の執事による日誌記事
     昭和11年6月の標記日誌記事を示します。日誌は友泉亭には出かけてはいない者が記したと思われますが、冠山の杉戸絵完成披露の前後の様子が判ります。招待客のうち主だった方々は、金子伯御夫婦 福岡県知事御夫婦 久世市長御夫婦 武谷水城氏 大隈浅次郎氏であり、外に随員二名 招客(友泉亭別邸ニテ)があったことが読み取れます。
        日誌記事は、ここ TKR10_att-4 から閲覧できます。

    金子伯爵の落款がある冠山の友泉亭図(掛幅)
    冠山作「友泉亭図」(掛幅)
     標記の掛幅が残されています。上の日誌から推し量ると、当時金子堅太郎伯を友泉亭に招くのは簡単なことでなかった事と思われえるので、落款は昭和11年6月12日の別荘披き当日に頂いたものではないかと思われます。

     別に金子伯の「友泉亭」の書額が福岡市の所有となって友泉亭に掲げてあると聞いています。これも同日に頂いた揮毫ではないでしょうか。

     金子堅太郎伯(1853~1942)は大日本帝国憲法の起草に参画し、皇室典範などの諸法典を整備した明治期の官僚・政治家で、司法大臣、農大臣商務、枢密顧問官を歴任した人物。貝島家との繋がりについては筆者は詳しくは承知していないが、堅太郎の弟の辰三郎が貝島宗家の家宰を務めていたことがあり、健次の実父太助の時代から交誼があった模様です。


    3-3. 別荘披き時以外の友泉亭での健次招宴など


     前述のように昭和15年に健次は黒田長禮侯爵ご夫妻を友泉亭にお招きして植樹をして頂いている。 その時の写真は、ここ TKR10_att-5 から閲覧できます。
    これ以外の招宴など、健次が友泉亭を別荘としてどのように使っていたかについては、口伝もなく記録の精査も未だ不十分で筆者にはよく分かっていませんが、友泉亭には廣田弘毅揮毫の「友泉亭」書額も残っているそうですので、お招きしたことがあったのでしょう。なお、廣田弘毅と健次は修猷館の同窓であり、成人後も親しくしていたことは記録に残っています。
    なお、金子堅太郎伯及び廣田弘毅の揮毫「友泉亭」の書額の写真は、ここ TKR10_att-6 から閲覧できます。

    3-4. その他のエピソード


    つぎのような貝島家と友泉亭にまつわるエピソードもあります。

    Ÿ  太平洋戦争末期、筆者ら健次の孫一家は西宮より高宮邸に疎開している。その間兄たちは、何回か友泉亭に遊びに行っているが、自動車が使えなかった時もあるらしく、友泉亭から高宮まで延々筑肥線の線路を歩いたこともあったやに聞いている。
    Ÿ  昭和20619日の福岡大空襲にて友泉亭も被弾したが、同所に疎開中だった貝島太郎氏(百吉・マスの長男)一家の消火活動により戦災を免れた。
    Ÿ  太郎氏のご子息の康弘氏の話によると、友泉亭に住んでいた時のこと、「ある日突然大勢の村人が庭に入ってきて草取りや水路の掃除をし始めたので吃驚した。どうも当時は周囲の田圃の水路にもなっていて、入会地のように思われていたのかもしれない。」とのことであった。
    Ÿ  戦後、昭和26年ごろだったか、筆者も家族と一緒に友泉亭に赴き、黒田家お居間で休息した記憶がある。柱と長押が交差するところに武家屋敷風の金具飾りがあったことは覚えているが、杉戸絵のことは記憶に残っていない。(長兄壽夫も同様とのことであった。――夏だったので仕切りの杉戸は外されていたのかもしれない。)
    Ÿ  平成10年の市による「名勝」指定、及び平成11年の市博での「旧友泉亭の杉戸絵展」に当たっては、壽夫(定年退職後高宮に居を移していた)も協力している。
    Ÿ  平成1158日、壽夫はじめ高宮貝島家の一党がそろって当時の福岡市長・総合博物館長を友泉亭にお招きし昼食の宴を持ったことがある。ご両所の面識を得るとともに、壽夫が『友泉亭の「黒田家御居間」の再興の勧め』を言上することを目的とするものであったようだが、この時は高宮貝島家ゆかりの書画を友泉亭の広間に飾り、ゆかりの見台や琴を使った義太夫・謡曲・筝曲演奏や 嘉蔵翁懐旧談の朗読などの余興をしておもてなしをし、共に楽しいひと時を過ごした。
    (なお、嘉蔵は義太夫を、嘉蔵夫人・健次夫人は琴を、健次・寿夫は謡曲をそれぞれ嗜んだ。)

     この招宴のときの写真は、ここ TKR10_att-7 から閲覧できます。
    ―― 高宮南緑地(旧高宮貝島家住宅)を公園化する福岡市の事業では、同所の歴史的価値や貴重な樹林地を活かした公園機能の一つとして 迎賓館的機能も求められており、そこでは日本文化が体験できるもてなしや交流の場が想定されている由である。この招宴の様子はその参考となろうかと思う。


    【4】付言


     九州産業考古学会(編)「福岡の近代化遺産」(2008年弦書房刊)という書籍に、「貝島健次別邸(友泉亭公園)・貝島嘉蔵本邸 ―― 炭鉱王が都心に残したオアシス」という章があり、友泉亭公園と公園開設予定の旧高宮貝島邸の解説記事がある。しかしこれらを近代化遺産として来訪者に良さを感じ共感してもらうには、もっともっと工夫が必要と思う。本ブログで触れた松永冠山の杉戸絵映像展示や、伝統芸能・芸術に触れる機会の設定のアイディアなどの検討を進め、実現させてほしいものである。
     黒田藩以来の伝統文化が、石炭隆盛期には炭坑経営者によりかなりの程度支えられていたが、炭坑衰退後の福岡ではそのような文化の継承が非常に希薄だと見られて居るのは残念なことである。


    【5】根拠文献に関する筆者メモ(非公開)

    TKR_16 嘉蔵と竹本津太夫(番外)

    ーー国立文楽劇場での特別展示ーー 2019年9月28日より11月24日までの期間、国立文楽劇場(大阪)にて特別企画展示「紋下の家 ―竹本津太夫家に伝わる名品ー 」が開催されています。 今回はこの展示のうち貝島家に関係する部分を中心に展示の概要を説明します。 ...