2019年6月30日日曜日

TKR_15 嘉蔵と竹本津太夫(その2)

ーー貝島の浄瑠璃趣味に関する遺品と史書記述などーー



一つ前の投稿(TKR_14)にて、大観の「霊峰一文字」の来歴にまつわる話から、贈呈に関わった「資金主貝島」は本当は誰なのか、また嘉蔵らの浄瑠璃趣味や津太夫との交誼はどのようなものであったかなどについて興味を持ち、色々調べを始めることとなった。
一直線に調査が進んだわけではないが、今回は高宮邸に残されていた浄瑠璃趣味関係の遺品 と明治期の太助・嘉蔵の逸話などについて知り得たことを記述したい。
いわば嘉蔵と津太夫との交誼に関する話の前史に当たる話題である。


【2】高宮邸に残されていた浄瑠璃趣味関係の遺品


高宮邸の蔵に残されていた物品の中に、嘉蔵らの浄瑠璃趣味関係のものが幾つかある。調査は先ずこれらを確かめることから始めた。

21.嘉蔵特注の見台

 前回の投稿(TKR_14)冒頭に記したように、筆者が1999年の友泉亭での招宴時に見たことがあって記憶に残っている義太夫見台について、20156月、福岡市総合図書館に依頼して見分させて貰った。
 写真を下に示す。

 貝島の家紋散らしが施された特注品である。(家紋は丸に剣片喰)
 箱に書かれた墨書などからこの見台は明治436月、大阪佐野屋橋筋 山家屋の手により新調された嘉蔵所有の義太夫見台であることが判る。本止め右手辺りに扇子を打って拍子をとったと思しきキズが多数残っており、実際に嘉蔵がこの見台を使ったものと思われる。
 なお、明治43 (1910)年には、嘉蔵は既に炭坑現場(大辻鉱業所長)を退いて西尾の家に居住していた。(なお、西尾邸全体が落成したのは数年後のこと)

22.浄瑠璃稽古本

 見台と同じく高宮邸の蔵に残されていた浄瑠璃稽古本(と称してよいのだと思う)が48冊残されており、総合図書館が整理して仮目録にしてくれていたもの一式を見分した。

 筆者の見るところ、この稽古本一式は 2つのグループに大別されるようで、
  •  一方は表紙に「福岡市高宮・貝島本家」のスタンプ押印がある32冊。 皆印刷された書刷であり発行者は大阪。あまり使用感が無い。――これらは健次が大正~昭和初期に文楽見物に際し購入したものではないか思う。
  •  他方は上のような押印が表紙にないもの16冊。 使用感があるもの、朱書の書き込みがあるものが多い。半分くらいは木版墨摺りであり、博多で印刷・発行されたものも3冊ある。――これら16冊は嘉蔵が実際に稽古で使ったものだろうと想像される。
 第2グループ16冊のうち最も古い年代のものは、明治211888)年4月の「奥州安達ケ原 三段目 袖萩祭文ノ段」であるが、写真からも分かるように使い込んで手垢のついたような代物であり、且つ中身の詞章ページに所々紙が貼ってある。そのほか古い出版年のものは 明治232326年のもの計3冊(いずれも木版)があるが、何故か明治30年代のものはなく、次は明治41年以後となっている。
   博多で出版の稽古本      紙を張った箇所があるページ      手垢がつき使い込んだ形跡 

 前述の嘉蔵の見台のキズや、これら手垢のついた古い稽古本を間近に手に取って見ていると、筆者は嘉蔵が熱演している姿を妄想してしまったのだが、盲目なのに稽古本をどのように使ったのかは想像もつかず全く不思議である。
 なお、見台、稽古本のほかにも、嘉蔵翁の肩衣と袴が残されている。(そのほか、2003年の高宮邸の蔵の最終整理の時点では太棹も残されていたように記憶するが、処分してしまったようだ。)

23.浄瑠璃のSPレコードアルバム

 邦楽のSPレコードアルバムが5点残されており、これらについても見分した。(いずれも福岡市総合図書館に預託中) そのうち3点は浄瑠璃であり、具体的には次のとおり。
  • 義太夫 菅原伝授手習鑑 竹本津太夫
  • 浄瑠璃 合邦      豊竹古靭太夫
  • 浄瑠璃 堀川猿廻しの段 豊竹古靭太夫
 なお、これらは嘉蔵でなく、健次が購入したものであろう。筆者が見分した時にこれらSP盤よりデジタル音声録取を行ったが、これら古い名人の録音については、別の投稿で改めて触れることとしたい。

▼ 本章のまとめ

以上、高宮邸の蔵に残されていた浄瑠璃趣味関係の物品である「嘉蔵特注の見台」「数十冊の浄瑠璃稽古本」「大正~昭和初期の名人太夫のレコードアルバム」について説明した。



【3】貝島側史書などに記された太助・嘉蔵の浄瑠璃趣味


本章では、上述の記念の物品にも導かれて、筆者が貝島側の史書や記録を調べたことにより判明した、嘉蔵らの浄瑠璃趣味に関する明治期までの情報をまとめることとする。
(なお、大正期以降の記録調査結果については、別途後の投稿で述べる予定)

31.嘉蔵の伝記類の関係記述

 嘉蔵が浄瑠璃趣味を持っていたことは、前章で述べた遺品から確かなことと思われるが、嘉蔵の伝記・略伝の中で浄瑠璃趣味に言及しているのは、「嘉蔵経歴小観」(M37年実業之日本誌所載;本ブログ TKR_03より閲覧可能)中の次に示す最後の一行のみであり、吉村誠著「偉盲 貝島嘉蔵翁」では何も触れられていない。
「△強記と嗜好: (前略)彼の嗜好は浄瑠璃音曲に在るが、就中琵琶及ぴ鼓を好む、而して演劇も亦た彼の好むところなりと」

32.「貝島太助伝」の関係記述

 他方「太助伝」では、太助の浄瑠璃天狗ぶりがあちこちに出て来る。即ち、次のようなエピソードが記載されている。これらの記述から嘉蔵の浄瑠璃への関わりの推移をも想像することも出来よう。
     (明治13年)三弟嘉蔵失明後の無聊を慰めるため、三絃の稽古を奨めたが容易に応じないので、一計を案じ太助自ら浄瑠璃を学んでこれに和すよう仕向けたこと。
     (明治13年)三男健次誕生に際し、太助は浄瑠璃の稽古に夢中でなかなか名前を付けなかったこと
     (明治18年ころ)太助は(未だ経営が安定していない時期にもかかわらず)往々木屋瀬(こやのせ)、植木、直方等に豪遊を試み、屡ば浄瑠璃会を開き、炭坑の納屋頭領と親しく出語りし、嘉蔵及び師匠盲人円若に相方三絃を弾ぜしめたが、其顔触の珍奇なるゝ毎に聴衆多く、往々滑稽であった。[注:盲人の師匠に就いて太助・嘉蔵が稽古を始めたことは要注目。師匠と嘉蔵が盲目、太助は読み書きが出来ぬという環境下で口伝による稽古が成り立ったということになる
     (上と同じころか)ある日木屋瀬村での上と同様な浄瑠璃会に 博徒長井平次郎なる者多数の暴漢を率ひて突然入場して罵詈嘲笑を極め無礼を働いたが、太助の部下が場外に排除して懲らしめた。村民が嫌悪していた博徒だったので快事とされた由。[注:木屋瀬(こやのせ)は直方の北方約5㎞に位置し、遠賀川沿いの宿場町で長崎街道と唐津街道の分岐点にあった宿
     (明治35年)太助が麻生太吉らと同伴して上海視察の途に上ったことがあったが、海上無聊に堪へず、独り悠然甲板に出てゝ胡坐して盛んに浄瑠璃を語りだした。金髪碧眼の婦人はじめ皆吃驚して集まってきたが、太助は平然として語るのをやめなかった。
     (上と同時期のことか)太助は一たび浄瑠璃の稽古を始まると、たとえ急用があって面会を求めてもその終る迄待されるのが常であった。また協議していてまだ結論が出ていなくても、ほぼ方針が分かると座を立って稽古を始めてしまい、最終結論のために座に戻るように呼びに行っても聞かなかった。
     (明治4011月)東京での井上馨侯の70歳の寿宴に招かれたが、途中大阪より竹本文太夫[後の3世津太夫]を連れて行き、太夫に菅原四段目を語らしたが、侯大に満足し、『流石は浄瑠璃天狗の推挙ほどあり』と賞した。
     (明治40年、上と同じ宴)井上侯が返礼にと、太助に 素晴らしいとともに由緒あるお宝見台を下さった。[注:この見台の行方は不明

 上述の各エピソードの「太助伝」中の原文記述は、ここ TKR15_att-1  から閲覧できます。(本項の筋道からは少々脱線しますが、太助の人柄の一面を語る面白い読み物ともなっています。)
 なおここで、明治41年の上記 ⑦ は、3世津太夫と貝島が贔屓として接触を持ち始めたことを示す最も古い史書記述となっています。この行の抜書きは以下のとおりです。(嘉蔵もこの宴席に同席していたかどうかまでは判りません。)
明冶四十年十一月二十八日井上侯東京に於て七十歳の寿宴を催す。彼太助のこと例の如く招かれて上京するや、途次大阪に立寄り、竹本文太夫後に三世津太夫を襲名を拉して行く。此くて侯の長寿に肖からんと、十二月十三日侯を築地瓢屋に請じて盛宴を張る。手踊、落語、長唄等の余興数番の後、文太夫をして菅原四段目を語らしめしが、侯大に満足し、『流石は浄瑠璃天狗の推挙ほどあり』と賞し、且つ彼に謂って日く、『今夕の返礼として卿に好個の物品を与へん』と、侍者をして席上に運ばしめぬ。・・以下素晴らしい見台を頂戴する話が続く

33. 森鴎外が太助に面会後 友人に宛てた手紙の記述

 森鴎外は明治3310月直方の太助邸(TKR_13にて紹介した)に立ち寄り3泊しており、「小倉日記」にその時のかなり詳しい様子の記述を残している。その中で太助の人物像については、六日、「主人太助出でて客を見る。五十歳許の偉丈夫なり」と簡潔に記している。 、また、小倉日記に加えて鴎外が親友賀古鶴所に宛てた手紙があって、その中に
「近頃九州の炭坑王貝島太助に面会せしが、目に一丁字なき男なりというに、末松(謙澄)大臣に電氣をかけて筋肉をしまらせた如き風骨にて立派なるやつに侯。朝から暮まで浄瑠璃をうなり居れど、炭山事業は死ぬまで止めぬよう申居由に候
との行があるとのことである。(1999年 谷伍平氏が新聞に寄稿された「森鴎外と九州文化」と題する記事による。

▼ 本章のまとめ

上述の嘉蔵の遺品や「太助伝」の浄瑠璃関係記述を見ると、嘉蔵も浄瑠璃を愛好し、自身で稽古した時期もあったことは確実と思える。最初は明治10年代に太助の庶民的な素人浄瑠璃語りの相三味線でスタートし、後に自身でも語るようになったようだ。ここで、相三味線は稽古本を暗記して演奏するわけだが、嘉蔵は失明前の1522歳の頃豊前香春の養家で浄瑠璃を習い覚えたと思われ(推定根拠については次回記述の予定)、これが役に立ったのかもしれない。なお、嘉蔵の浄瑠璃趣味が史書や口伝であまり伝えられていないということは、人前で語るまでのことはしていなかったということかもしれない。



4】九州の於ける曾ての素人浄瑠璃隆盛の様子について


戦後生まれの世代、現代のほとんどの人たちには想像もつかないと思うが、明治初期から昭和20年代までくらいの間、九州で(全国でも各地で)素人浄瑠璃が大変隆盛であったそうである。このような状況が当ブログの表題「嘉蔵と竹本津太夫」の背景となっていると思うので、筆者は全くの門外漢であるが、この辺りのことについて研究者などから教えて頂いた情報の一端を記述してみたいと思う。

4-1.素人義太夫隆盛の概観

 近代において素人義太夫が隆盛であった状況の概観について、研究者の所論を筆者なりに要約すると以下のとおりである。

  • 「浄瑠璃」と総称される三味線を用いた語り物音楽は、江戸初期には人形芝居と結びつき、様々な演者による人形浄瑠璃が亰・大阪・江戸で興行されていた。その中で江戸前期に竹本筑後掾が浄瑠璃の一派たる義太夫を創始し、大阪道頓堀に人形芝居小屋「竹本座」を立ち上げ、近松門左衛門と提携してたちまち一世を風靡した。
  • 一方、音曲としての要素を持つ義太夫は、人形芝居を離れ、寄席や座敷において太夫と三味線だけで語られるようにもなった。(この上演形態を「素浄瑠璃」とよぶ。)十九世紀には義太夫の稽古が主に町人の間で普及し、素人が語りや三味線を稽古しておさらいの会合を持つことが広くおこなわれるようになる。(この活動や人を指して「素人義太夫」と呼ぶ)素人義太夫は幅広い人気を保ち、その様相は単に慰みとして語ってみる程度のものから、多大な財力をつぎ込んで自ら義太夫会を催す者、さらには趣味が嵩じてプロの義太夫に転身するものまで居た。
  • 明治の義太夫は、「人形芝居」「素浄瑠璃」「素人義太夫」「女義太夫」それぞれの人気が相まって、極めて広い大衆人気を得ていた。これらの頂点に立つ大阪の人形芝居の方は明治末年/大正初期に急激に衰退した由だが、「素人義太夫」はこれをよそに人気が衰えることが無かった。

4-2.福岡県下の素人義太夫隆盛の様子を伝えるもの

 標題の様子を今に伝えるものだと筆者が実感している「素人浄瑠璃大会番付」「文芸作品」「杉山其日庵の著書」について紹介しておく。

(1)第三回素人浄瑠璃九州大会番付(大正五年十一月調)
 明治40年ころに『九州日報』が福岡県素人浄瑠璃人気投票なるものを行って大盛況を博した由であるが、筆者が香春町在住の研究者・村上利男氏から頂戴した標記の番付のコピーを見た印象は圧倒的であった。その映像を下に示すが、原寸は幅57㎝・縦42㎝ほどの物であるようだ。
大正五年十一月 第三回素人浄瑠璃九州大会番付表
番付右上部分拡大図
 この番附には、一人ずつ「番付位・演目・居所・氏名」が、例えば「前頭・沼津の里・豊前採銅所・本田潮」のように毛筆で書かれており、その人数は次のような多数に及んでいる。
即ち、掲載全人数=447名、内出席者人数=317名、内素人義太夫出演者人数=168名(含む子供の部19名)、これに69名もの師匠連が名を連ねている。
 掲載人名の区分別人数を読み取った表については、をここ TKR15_att-2    から閲覧できます。

 筆者は九州大会がどのように行われたのか(複数日?複数会場?)とか、観客動員数規模とか、出演者や観客の感想とかを伝える資料に接したことはないのだが、いずれにしても物凄い人気であったろうと想像できます。なお、この大会の採点表と評が残されているそうですが、素人浄瑠璃とはいえ厳しい評価がなされているとのことです。

(2)文芸作品
 筑豊における素人義太夫の隆盛の様子を描いた文芸作品としては、火野葦平の「兵隊文楽」(昭和32年刊)と「燃える河」(昭和33年刊)が挙げられる。これらには田川郡に実在する寺、炭坑、伊加利人形芝居が名を変えて登場しているそうである。筆者は「兵隊文楽」の方のみを読んだことがあるが、小説の本筋もさりながら、戦前の庶民層にまで広がった素人義太夫隆盛の様子がよくイメージできると思う。また、これによれば「見台披き」などということも行われていたようである。




(3)杉山其日庵(著)「浄瑠璃素人講釈」
 杉山茂丸(1864-1935;其日庵は彼の戯号)が大正15年に素人義太夫としての立場から著した、義太夫が目指すべき規範を追求した実践的研究書である。義太夫芸の「風(ふう:様式)の研究」の原点であり、後代の太夫や三味線方、研究家に大きな影響を与えたそうである。岩波文庫版編者のひとりは「文楽が十倍面白くなる本」とも。
本書は、岩波文庫版が絶版になっているが古本で容易に入手できる。また下の国会図書館リンクから閲覧できる。    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1016656 
 杉山茂丸は福岡藩士の長男として生まれ、玄洋社に所属した時期もある九州所縁の政治活動家であり、「政治浪人」として明治から昭和初期にかけて国政に関与し続けた人物であるが、彼が「義太夫の通人」としてこの著作とともに斯界で今もって記憶されるまでに大成し得たのは、上述の九州における素人義太夫隆盛の土壌あってのことと言えるであろう。
 上の「・・講釈」とは別に、杉山其日庵述べた素人義太夫の稽古心得15ケ条があります。門外漢の筆者にはこの短い条々は大変興味深い物でした。
この15ケ条はここ  TKR15_att-3  から閲覧できます。[「義太夫大鑑 下巻」(大正6年刊)第5章「稽古の心得」中に収録されている。筆者は村上利男氏『「人形浄瑠璃(文楽)と田川」その三』(郷土田川誌(1993年)所載)の終章に掲載されているものを読んで感銘を受けた。
素人義太夫といえども師匠のもとで大変な稽古をしなければならないことや、芸の奥深さが想像できるかと思う。

 因みに、近代の東京における素人義太夫は、旧公家や政財界の実力者を含む富裕層に広く受容され、貴顕の社交場としての役割を兼ね備える様態なっていたとのことである。(前述の明治41年東京での貝島太助が井上馨を招いた寿宴時のエピソードも、この一コマと言えるかもしれない。)

▼ 本章のまとめ

以上今回の投稿の背景となる「九州の於ける曾ての素人浄瑠璃隆盛の様子」について、筆者が知りえたことの概要を紹介しました。なお、ここでは浄瑠璃隆盛のことに絞って紹介しましたが、人形芝居も大変人気のある芸能で、福岡県下では伊加利人形芝居、今津人形芝居、ほかいくつかが素人が担い手になって今も命脈を保っている由です。



■ 今回投稿分のまとめ

 今回は(その1)に記したことを契機とした筆者の調査に基づき、高宮貝島邸に残されていた「嘉蔵らの浄瑠璃関係の遺品」及び「貝島側史書に見えるエピソードなど」を紹介した。さらにこれらの背景となる「九州に於ける曾ての浄瑠璃隆盛の様子」についても触れた。
 これらにより、嘉蔵の浄瑠璃趣味の実態がどのようなものであったか、かなりの程度想像できるかと思うのだが、読者の皆様は如何であろうか。
 次回は三世・四世津太夫の人と芸について述べることとしたい。



■ 根拠文献に関する筆者メモ(非公開)


2019年6月12日水曜日

TKR_14 嘉蔵と竹本津太夫(その1)

――イントロ と 横山大観筆「霊峰一文字」の話――



イントロダクション


筆者には2015年初頭までは、嘉蔵と竹本津太夫や義太夫との関りについて、次のことぐらいしか頭に入っていなかった。
  •  嘉蔵と津太夫との間柄についての母の口伝――小学校4年生のとき(1951年)祖父が一家を大阪四ツ橋での文楽見物に連れて行ってくれたことがあったが、その時母から「嘉蔵おじいさまは、むかし津太夫少年と肩を並べて義太夫の稽古をしていたことがある。(それもあって)貝島はずっと津太夫を贔屓にしていた。」との話を聞いたことがある。
  • 高宮邸の蔵に保存されていた義太夫見台――1999年長兄が友泉亭に当時の福岡市長他を招いて昼食の宴を持ったことがあるが、その際高宮の蔵から嘉蔵が使ったとかいう立派な義太夫見台を持ち込み、それを使っての小学生による義太夫語りをおもてなしの一つとしたことがある。なかなか感動的な「阿波の鳴門」であった。

然るに2015年初頭に至り、友人から、「箱根の美術館で素晴らしい横山大観の富嶽図の大作を見たが、ガイドの説明ではそれは貝島何某がパトロンになって文楽太夫に送ったものとのことであった。貴君も観に行くべし」との趣旨の連絡を受けた。これが機縁となって色々調べたりするうちに、幸運な出会いなどもあって、素晴らしい芸術や、吃驚するようなエピソードの数々に出会うことが出来ることとなった。
まだまだ全面的な解明には至ってはいないが、次のような段落に随ってこの辺りの話を説明したいと思う。

  1. 横山大観筆「霊峰一文字」の話
  2. 浄瑠璃趣味に関する貝島側の遺品と史書記述について
  3. 三世・四世竹本津太夫の人と芸 並びに貝島が贈呈した梅の見台について
  4. 貝島側記録で分かった嘉蔵らと津太夫との交誼について


【1】横山大観筆「霊峰一文字」の話


前述のように友人からの知らせを受け、20153月、箱根小涌谷にある岡田美術館で大観の大作である「霊峰一文字」を見に赴いた。事前に連絡しておいたところ同館の小林忠 館長から、この作品の来歴や貝島との関係など、館の調査結果の詳しいお話を伺うことが出来た。
この大観の大作富嶽図の迫力・魅力も息を呑むようなものなのだが、この作品制作の由来や、製作後の作品の運命も大変興味深い物であり、且つこれに関わった人間のなかに貝島が登場するところから、以後現在に至るまで筆者が、貝島(就中嘉蔵)の津太夫や義太夫・文楽に係わる事跡を調べる契機となった。
それゆえ、本章ではこの大観筆「霊峰一文字」にまつわる話について、かなり詳しく説明したいと思う。


1-1.作品自体の紹介と概略説明


作品(横山大観 霊峰一文字)の画像 及びその来歴等の概要を以下に示します。
なお、「一文字(いちもんじ)」とは、文楽舞台の上方に置かれる細長い引幕のことです。(舞台上部の諸機構を観客の目から隠すために使用されます。) 作品は現状では表装されていますが、元々は一文字即ち引幕に揮毫されたものです。

▷ 作品の画像
大体どのような作品であるかを把握してもらうため、岡田美術館のHomepageに掲載されている画像を下にコピーしました。やはり本物の迫力・魅力は格別ですので、是非同館に足を運んで鑑賞していただきたいところです。

部分
霊峰一文字
 (れいほういちもんじ)
横山大観(よこやまたいかん)

 大正15年(1926)
 絹本墨画金彩 1卷(付属1卷)
 94.0×873.2cm 

全体

▷ 作品の概要説明

 同館のHomepage上で公開されている本作品の概要説明は以下のとおりです。
約9メートルに及ぶ長大な画面に、涌き起こる黒雲の中から姿を現した霊峰富士の雄姿を描いたもので、大正15年、数え年59歳の横山大観(1868〜1958)が水墨の妙味を発揮して描いた力作です。当時の大阪文楽座の座頭(ざがしら)であった義太夫節の太夫・3世竹本津太夫(たけもとつだゆう 1869〜1941)が、病気全快したことを祝って再帰後の舞台を飾るために描きました。 同年9月15日から始まった『伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』の公演で使用された後、文楽座の火事で危うく焼失するところを、幸運にも免れたという後日談があります。長らく所在が不明であったものですが、再び世に現れて公開の運びとなりました。

▷ 展示環境

 箱根の岡田美術館は201310月、箱根小涌谷にOpenした全5階展示面積約5,000㎡という大規模な美術館。岡田和生が収集した日本・東洋の美術品だそうです。www.okada-museum.com 参照方)  同館2階に、横幅10mにも及ぶこの大作を途中柱なしに、遠くからも近くからも鑑賞できるような、贅沢なスペースと巨大ガラスの展示ケースが用意されています。

1-2.本作品制作・贈呈に関する興味深い物語 及び津大夫の人物像


筆者が20153月に岡田美術館に赴いた時には、小林忠館長と稲墻朋子学芸員が応接して下さり、詳しい説明を伺ったり関連資料コピーを頂戴することが出来た。


▷ 頂いた資料

 頂いた資料の中から次の2点を下に示します。
     2014年の本作品初公開のとき、館長による講演会で使用された「説明メモ」
  (閲覧はここ TKR14_att-1 から)
     大正15(1926)911日付大阪朝日新聞記事「大観画伯が引幕を描く――津太夫の意気と古典芸術のために」(文楽協会『義太夫年表(大正編)』に掲載されたものーーただしこの年表では出典を誤って毎日新聞と記している
  (閲覧はここ TKR14_att-2 から)


▷ 説明を受けた本作品の制作・贈呈に関する興味深い話

② によれば、津太夫の談話として「先月(大正158月)十三日東京の歌舞伎座を打揚げまして、翌十四日、日ごろひいきを蒙ってゐる九州の貝島炭礦王が築地の新喜楽にゐられたのでお禮に參りましたところ偶然にも横山大観さんがお出でになつてゐまして、お目にかゝりました。いろいろ話してゐるうちにすつかり共鳴してしまひまして何か一つ記念にといふところから、かねて貝島さんから私の病気全快祝ひとして頂戴することになつてゐた一文字(舞台の上に吊る幕)に筆をふるって戴くことになったのです。」とある。
筆者としては、上述の母の口伝もあって貝島の名が出て来るところを興奮しながら読んだが、一般には当時59歳で美術界の総帥といった立場の横山大観画伯が当時文楽の座頭であった竹本津太夫と意気投合し、意気に感じて画筆をふるった美談と受け取るべきものと思う。記事によれば大観が「あのまゝにしておけば文楽は滅びますからね。津太夫には前にも會ひました、その態度は気に入ってゐます、つまり彼の意気に感じ、古典芸術のために墨さうと思って承諾したのです」と語った由である。
そして、① によれば、この富嶽図の引幕は大正15(1926)年9月15日からの御霊文楽座盆替り興行で使われた。演目は『伊賀越道中双六(大序よりハッ目まで)』。八つ目の「岡崎」の段までは、鎌倉から始まり、沼津、藤川、岡崎へと旅をする東海道道中双六の趣向であり、富士山の図は劇の内容にふさわしい。なお病癒えた(3世)津太夫は、この公演で最後の岡崎の段のキリを務めている。(三味線は鶴澤道八)

▷ 津太夫の人物像について

また、(3世)津太夫については、名前だけは母の口伝で知っていたが、頂いた資料にて次のような経緯で文楽の世界に入ったことや、芸風の概略などを知ることが出来た。即ち、「津太夫は明治二年、福岡県田川郡香春町に生まれ、本名を村上卯之吉と称した。豊前彦山権現に遠からぬところで育ったのだが十三歳の時志を立てゝ竹本綱尾といふ女義の手蔓で大阪に出で、法善寺に居た二代目津太夫に入門を求めたのだった。(以下略)」明治43年春三世津太夫襲名、大正135月文楽座紋下、昭和1657日没(73歳)。豪快な芸風で、一段中少しもゆるめぬ熱演。剣法知らず人は切れる、といった感じ。床に上がると客を圧倒する。すしや、逆艪等がよく、晩年は沼津等にも味があった。ーーとのことである。


1-3.その後の霊峰一文字の運命


上述の大正159月の御霊文楽座盆替り興業の後、この大観描く富嶽図の引幕は次のような数奇な運命をたどって、岡田美術館が所蔵することとなった。

▷ 御霊文楽座焼失

(贈呈直後の大正15年)1129日午前1148分に文楽座舞台正面の天井裏から出火、文楽座および御霊神社全焼。津太夫らは121日からの広島はじめ中国、九州地方への巡業を前にして、1128日に荷造りした人形、衣裳全部を焼失。わずかに各太夫が持ち出した見台その他各自が運び出していたもの(大観「富士図」幕も含まれる)は類焼を免れた。横山大観と竹本津太夫の交友を記念する、この大観描く富士図の大作にして傑作は、まさに危機一髪のところで、焼失を免れたのであった。

▷ 戦前期におけるこの引幕の使われ方

焼失を危機一髪のところで免れたきこの貴重な引幕が、戦前の舞台でどのように使われ観客らに評価されたかについては、記録が無いようであり、現在までにところ筆者には分かっていない。昭和16年の3世津太夫没後、4世津太夫に相続されたが、戦後の文楽座困窮期にやむに已まれず手放されたということらしいが定かではない。

▷ その後、岡田美術館所蔵となるまで

小林館長でのお話では、この作品は、存在自体は或る白黒写真で知られていたが、長らく行方不明になっており、権威ある大観の作品全集にも収録されていなかったものだそうです。岡田美術館所蔵となるまでには色々の経緯を経ているようだが、そこまでのお話はなかった。この間、引幕は為書きの部分が切り離され、それらが各々表装された形になっている。

1-4.霊峰一文字と貝島の関わりについての筆者の大きな興味


上述の資料①には、彼の新聞記事をもとに【資金主は「九州の貝島炭鉱王」貝島太市】と記されているが、筆者は本当に太市氏であったかどうか疑問に思った。
因みに筆者が疑問に思った理由は以下のとおり。
  • 太助が浄瑠璃天狗と言われるほど義太夫を愛好した由だが既に没しており、大正15年に津太夫と密接な付き合いを持ち得たのは、嘉蔵・健次・太市(筆者の曾祖父・祖父・祖父の弟)の3人である。
  • 健次は大正14年に貝島炭鉱から転じて大阪に貝島乾留株式会社を創立し、その社長となっているので大正15年当時京都又は西宮に起居しており、文楽好きでもあったと聞いていたので、(母の口伝にある少年時代からの縁がある)嘉蔵の意を受けて津太夫に快気祝いを贈ることは自然に思える。
  • 他方、太市が浄瑠璃の稽古をしたり、文楽を愛好したとの話は聞いたことが無かったし、長府に在住して貝島炭礦社長としてその経営に当たっていたのだろうと想像される。(後の調べで実はそうでもなかったらしいことも分かったのだが・・)

作品の迫力・魅力及びその来歴の不思議の興奮しながらも、この引幕贈呈の話は、貝島側の史書には記載がなく、また口伝も聞いたことがないので、筆者は大きな興味を持ち、以後色々調査に深入りするところとなった。
  この深入り調査の結果については、稿を改めて(その2)以降で書いてみたい。



 

 ■ 今回投稿分のまとめ

  
  今回は「嘉蔵と竹本津太夫」と題して4回くらい続く投稿のイントロを述べ、且つ筆者の調査活動の契機ともなった、横山大観筆の大作富嶽図「霊峰一文字」との出会いや これにまつわる話について述べた。






TKR_16 嘉蔵と竹本津太夫(番外)

ーー国立文楽劇場での特別展示ーー 2019年9月28日より11月24日までの期間、国立文楽劇場(大阪)にて特別企画展示「紋下の家 ―竹本津太夫家に伝わる名品ー 」が開催されています。 今回はこの展示のうち貝島家に関係する部分を中心に展示の概要を説明します。 ...