2018年7月29日日曜日

TKR_06 旧高宮貝島邸の建築物について(その1)

今回は、現在福岡市により公園化事業がとり進められている旧高宮貝島邸の概況及び現存建築物についての説明と、関連資料の紹介をしたいと思います。
なお、現存しない建築物(主として邸の居住部分だったところ)については、今後適当な時期に別途「高宮邸の建築物について(その2)」にて紹介したいと考えています。

【1】旧高宮貝島邸の概況

敷地の現況

  • 福岡市の中心から南約3.5kmに位置(西鉄高宮駅から徒歩5分)
  • 敷地面積:約1.9ha
  • 広壮な樹林地であり特別緑地保全地区に指定されている
  • 福岡市がS56~S62年度、H9~H24年度に用地取得
下に敷地の航空写真および敷地現況図を示します。
google map 2018年現在より(北は本映像の2時方向)
旧高宮貝島邸敷地現況図(2015年福岡市提供の図より)

現存建築物の概況

  • 大正4年に直方市に建築、昭和2年に現在地に移築
  • 築100年、当時の建築様式を遺す福岡市内でも貴重な大規模木造建築
  • 平成15年に、建物寄附に際し移築時の建物の半分以上を取壊し撤去#
  • 現況建築面積:671.59㎡(母屋、茶室、衣装蔵)
  • 福岡市は平成15~17年に高宮貝島家より寄附を受け、保存・活用検討してきた。
下にこの現存建築物(除く茶室)の平面図を示します。

高宮邸既存建築物・現況平面図(母屋及び衣装蔵)(1015年福岡市提供の図より)
図中グレーで示されている部分(中央から右)が平成15年撤去部分# に相当します。左方のグレー部分は茶室部分であり平成2年に邸内の高台の現状位置にに移設されました。
(因みに本玄関に至るまえに通過する本門と、玄関脇の脇門も撤去されています。)
現在残されている母屋及び茶室は、本来の邸宅全体のうち「接客部分」です。
なおここで、建物が南向きではなく、'東南東' 向きに建てられていることにご留意ください。(本ブログでは、本邸の研究書に倣い正面を東向きとして位置関係を記述します)

下に現況の邸の内・外観写真を示します。
高宮邸現況写真(2015年公表福岡市事業概要(案)より抜粋;写真の明るさ修正済)
     この写真ページの鮮明なものは次よりDownload/閲覧することが出来ます。
      TKR06_att-1

公園内での現存建築物の保存・活用に向けて


福岡市は次のステップを踏んで現存建築物(但し衣装蔵は除く)の保存・活用を条件とした高宮南緑地の公園化事業者の公募*を行いました。(H29年3月末)
大変多くの方々のご尽力が実って、旧高宮邸の保存・活用の道が開けたという経緯をご理解ください。

1)歴史的建築物の保存・活用を図るための条例を制定:
  (H27.4施行「福岡市歴史的建築物の保存及び活用に関する条例」)
   ・歴史的建築物に対して建築基準法の適用緩和を認める仕組み
   ・往時の意匠や形態を損なわずに安全に保存・活用する
2)必要な耐震補強工事内容の解明:
  市発注の詳細技術検討により、上の条例のもとでの必要な耐震補強工事内容
  を解明、部屋内外からの外観を損なわずに補強が可能との結論が得られた。
3)母屋及び茶室棟を市登録有形文化財に指定**(H29年)

* 公募関係資料(公募要綱等)については次の福岡市ウェbサイトから閲覧/Downloadできます。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/jutaku-toshi/ryokkasuishin/business/takamiyaminamiryokuchi_1.htm
 ** 市登録有形文化財指定時の市の報道発表資料は次の通りです。
  この中に登録理由として次の記載があります。
旧高官貝島家住宅は市内において有数の近代和風建築であり,一部が解体されたとはいえ,規模が他に例を見ない。筑豊の石炭産業全盛時の歴史を伝える貴重な建造物であり。九州北部の炭鉱経営者の住宅と比較Lでも遜色ない価値を有する。 (後略)
   
閲覧/Downloadはここから; TKR06_att-2


【2】現存建築物の全般についての解説


ここでは現存建築物の全般について、その来歴、建築自体の説明と特徴、嘗ての使われ方などについて解説します。

現存建築物全般


来歴
邸全体としては大まかに言えば次の来歴をたどっています。
  • T4年(完成披露):直方・西尾の地に嘉蔵家本邸として建設
  • S2年(移築完了):西尾より高宮の地に移築。その際新たに増築された部分もある
  • S27年:進駐軍接収解除後、損傷部分を復旧
  • H2年:茶室部分を邸内高台に移動、現洋室部の内装を一新、奥居間・奥の4畳半を撤去などの改変を実施
  • H10年:建築史専門家による邸の詳細な調査実施
  • H15年:市の基本方針(H12年助役決済)に随い、現存建物以外の部分を解体撤去
<補足> S27年の接収解除後の復旧は随所に及び、床面及び壁面は全面的な復元工事が行われている。それ故 現状での床及び壁面の表面部分は、各部屋ともこの時のものである。(ただし、その後H2年に改装工事等を行った洋室と茶室棟はその時のもの) 幸いこの復元工事は、S2年の邸移築時の大工棟梁であった永野善兵衛(長野とも書く)が担当してくれたと推定される記録があり、正統な復元が出来ていたと考えられる。

建築自体の説明と特徴(現存建築物全般)
<注記>下記記述のうち、緑色文字のものは、福岡市の前述の公募要綱<添付資料1-2>「保存活用計画 補足資料」Page 6&7から引用したものである。
▷二つの建築様式が見られる大規模な近代和風建築の遺構
  • いずれも上質の 書院造の本座敷棟・本玄関棟と、数寄屋の南八畳・茶室棟の二つの建築様式が、往時の樹林を含む地所とともに見ることが出来る大規模な近代和風建築の遺構です。

▷構造
  • 壁の存在が極端に少なく、揺れることで強度を持たせる木造本来の伝続的な在来軸組工法である。
  • 布基礎に固定した現行の基礎形式ではなく、独立基礎(束石)の上に建物を量くだけの在来工法である。-
  • 遠方より解体移築された建物であり、在来工法の自由さを再認識することが出来る。
▷意匠(外部)
  • 長く雁行する形態と折り重なる屋根が意匠的にも陰影と深み、面自さを生んでいる。
  • 屋根の形態は起り(ムクリ)破風、入母屋造り箕甲(みのこう)納め、入側、縁側、廊下部は軒先銅板一文字葺きに一文字瓦納めなど、複雑に重なりあう屋根の重厚さ、美しさを持っている。特に南八帖は二方向に入母屋造りの手間のかかった仕事である。
  • 玄関・本座敷の妻飾りは木連格子に下魚を備え、南八帖では丸形の換気格子組が対となるなど、外部の意匠を凝らしている。
  • 柾目板の軒裏、化粧小舞軒、小枝の垂木に葦を張った軒等、棟ごとに凝った作りになっている。
▷意匠(内部)(現存各部屋共通)
  • 柱は杉の四方柾、他の部材も素性の良い目の詣まった柾目材を使っているが、華美な意匠ではなく、全体的に質素なデザインである。
  • 各棟を雁行配置にすることによってすべての部屋が明るく、庭園を望む開放的な空間になっている。
  • 欄間は部屋ごとに変化を持ったデザインとなっている。
  • 当時の手作りガラスは微妙にゆがみを持ち、外の景色が揺らいで見える。残り少ない貴重な財産である。

嘗ての使われ方(現存建築物全般)
  • 戦前・戦中期:前述のように、現存建築物は邸全体のうち接客部分であり、本玄関より左方は 普段は当主の家族は使わずに大切にした部分であった。
  • S21~27年:戦後進駐軍に接収された時代には、米軍大佐クラスの家族がここに居住した。(S27年に復元改修工事実施)
  • S28~S34年頃:貝島炭砿倶楽部として借上げを受ける。(本座敷等は在福貝島一族の女性陣が日舞の稽古場として使うなどした。)
  • S35頃~57年:アメリカ領事館に賃貸(領事公邸として使用された)

その他
健次存命中に高宮邸を訪問し、その当時の建築や庭園とか、もてなしの様子などについて感想等を記した文書は、筆者が知る限り残されてはいない。


母屋 及び茶室棟平面図

母屋平面図(福岡市公募資料より)

茶室棟平面図(福岡市公募資料より)
















【3】現存建築物の各ブロックごとの解説


現存建築物の各ブロックごとの解説、即ちそれらの「来歴、建築自体の説明と特徴、嘗ての使われ方」などについては、下記の pdf 文書を閲覧願います。
ここでは次のブロックに分けて解説しています。
  1. 本玄関 及びその左右に連なる棟
  2. 洋室 と接続廊下
  3. 本座敷・書院・次ノ間
  4. 南八畳
  5. 茶室棟
  ここから閲覧    TKR06_att-3


【4】まとめ

 今回は標題の建築物について、福岡市の公募要綱関連書類 及び登録有形文化財指定文書を踏まえつつ、それに記載されていない事項を補足し、且つ「嘗ての使われ方」をも記述に加えました。
 今回のブログにより、邸を見たこともない方々にも現存建築物の概要を知ってもらうことや、その住人たちが(各時代区分ごとに)どんな風に使っていたかのイメージをいくらかでも持ってもらうことが出来れば幸甚です。
 さらに、TKR-01にて「偉盲貝島嘉蔵翁」の録音図書を紹介する文書 201805_TKR01_att-1 の中で、『本書(録音図書)がこの近代木造建築の貴重な遺構とされるものに因む「現代人にも共感を持たれる物語」を与え、その歴史的・文化的価値を高める柱となることを期待したい。』と書きましたが、遺構のうちどの部屋でその物語を想起してもらい、嘉蔵の喜びを追体験してもらうことを期待するかについても、今回のブログにて明らかにしたつもりです。


2018年7月18日水曜日

TKR_05 貝島嘉蔵家の歴史 と その家風の概略について

旧高宮貝島邸は、貝島太助の末弟 貝島嘉蔵(1856~1935年)に始まる嘉蔵家の本邸であった邸です。嘉蔵のあとの当主は 健次(2代目;1880~1953年)、孝(3代目;1906~1946年)・・と続きました。
今回は、この嘉蔵家の歴史とその家風について概略を記述します。
 なお今回は、標題に沿う既存資料が見当たらないので、資料紹介等でなく筆者の説明記述が長くなっております。
 

【1】貝島一族中での嘉蔵家の位置づけ


 嘉蔵は太助兄弟のうち、文兵衛(39歳にて早逝)、六太郎に続く末弟です。
 貝島一族中、嘉蔵家に本家の格称が与えられたのは 明治42年制定の貝島家家憲によるものです。――即ち、ここで宗家・2本家・6連家からなる貝島九家が家憲で定められ、また貝島家共同財産の各家持ち分も定められました。(下図参照)
 健次は太助の三男ですが、幼少のころから子のいなかった嘉蔵のもとで育てられ、嘉蔵家の養嗣子となりました。

より詳しい系図(但し三代目まで)は下記を参照ください。(なおこの図のシゲノ・永二の序列が逆になっており要訂正) TKR05_att-1

 嘉蔵家は家憲制定当時 直方西尾(直方町大字頓野、現直方私立第二中学校)に本邸を構え「西尾貝島本家」と称していましたが、昭和2年高宮(筑紫郡八幡村大字野間、現福岡市南区高宮)に移転し、以後「高宮貝島本家」と称するようになりました。

 高宮貝島本家と称した時代、即ち昭和2年から昭和25年(1927~1950年)には、高宮邸の当主たちが直接炭坑経営にかかわることはなかったので、高宮邸は他の炭坑主の邸とはかなり趣の違った年月を重ねました。
この辺りの事情は、旧高宮貝島邸の歴史的・文化的価値を生かすうえで関係者の理解が望まれる処なので、以下に嘉蔵家の歴史を(貝島家の炭鉱事業についても触れながら)略述しておこうと思います。


【2】嘉蔵家の歴史の概要


嘉蔵家の歴史を次の時期に分けて略述します。
なお、同じ時期の炭鉱会社についても 参考情報として青色の細字にて)嘉蔵家にも影響した主要イベント等を書き添えました。
 1)西尾本邸建設時まで(~明治42年)
 2)西尾貝島本家時代(明治43年~昭和元年)
 3)高宮貝島本家時代(昭和2年~昭和28年)
 4)健次没後(昭和29年~)

1)西尾本邸建設時まで(~明治42年)

 この時期は、TKR_01にて紹介した「偉盲 貝島嘉蔵翁」(大正7年刊)が描いている時期にほぼ一致します。
 嘉蔵(1856~1935年)は、赤貧の家に生まれ辛酸をなめた幼少年時代を過ごしたのち、長兄太助の尽力で兄弟ともども養家などから呼び戻され、ようやく力を合わせて炭鉱業で前進し始め、結婚もした矢先、25歳で失明の不幸に遭います。しかし、嘉蔵はこれを乗り越えて兄弟と力を合わせ、炭坑現場で約三十年間に亘り具眼者同様の活躍します。すなわち糧食分配所長を振りだしに、炭坑開鑿・採鉱の計画設計や 炭坑長としての現場指揮・経営に辣腕をふるいました。明治29年香月炭坑(後の大辻炭坑)買収後は、ここの炭鉱長を明治42年まで13年間務め、炭坑現場で活躍しています。この間に開鑿された新抗口16本、買収された鉱区5ケ所に及ぶという。又この間の大辻炭坑の出炭高は貝島全体の39% 
 明治42年は、嘉蔵が直方西尾に本邸を建設して香月から居を移した年ですが、同じ年に家憲の制定、貝島礦業合名会社の清算・株式会社への組織変更、嘉蔵の現役引退などのイベントもあって期を画する年です。
 また、この期間の末期には、嘉蔵の養嗣子健次の東京高等工業学校卒業・タケ(旧姓三浦)との結婚・長子孝誕生(明治38・39年)、健次の米欧遊学(明治40~42年、弟太市同道)、などのイベントがあり、二代目当主への代替わりの準備が進んでいます。
炭礦会社では、この期間は、太助が兄弟と相携えて大之浦炭坑開鑿に挑戦し(いろいろ危機はあったが)これに成功、さらに鉱区拡大などの積極的な経営により大発展を遂げて貝島が全国でも有数の大炭坑会社となり、初代兄弟が現役を引退して守成期にはいるまでの時期に当たります。この辺り経過を略述すると以下のとおりです。
  • 明治10年(1877):太助 帆足義方の組合員となり馬場山炭坑を開鑿。諸弟補佐す  
  • 明治18年(1885):太助 諸弟らと大之浦炭鉱を創業  
  • 明治24・25年(1891・92):鉱区積極拡大策と折からの経済恐慌から財政危機に陥るも、井上馨の知遇を得て毛利家の巨額資金の(三井物産経由)借入成る 
  • 明治29年(1896):日清戦争による炭価高騰あって利益を上げ、毛利家に対する負債を償還して鉱区の名義及び実権を回復 
  • 明治30~39年(1897~1906):積極経営により大発展 
  • 明治39年(1906):事業拡張に要した負債全部を清還
  • 明治42年(1909):家憲制定、合名会社を改め貝島鉱業株式会社を組織す 
 危機に陥った明治24年からこの明治42年の間の大発展を出炭高で見ると、以下のようになります。

2)西尾貝島本家時代(明治43年~昭和元年)

 米欧遊学から帰国した健次(1880~1953年)は、貝島礦業(株)の菅牟田鉱業所長に就任(明治42年)、西尾邸完成披露・健次家督相続(大正4年)の後、常務取締役鉱務部長(大正5年)・社長(大正8~10年)と貝島礦業(株)の幹部を務めました。
 しかし社長を引いた後、健次は炭礦会社の経営実務から離れ、二回目の洋行(石炭低温乾留事業調査)を経て、大正14年大阪に貝島乾留(株)を興してその創業社長に就任。
またこの年 福岡への転居を決意、西尾邸の解体に着手しました。
即ち、この期間の後半(大正11年)からは、嘉蔵家は炭礦の経営に直接的な関与はせず、大正14年からは本邸を産炭地から離れた現福岡市高宮の地に移す動きを始めています。
炭礦会社では、二代目子弟に経営実務が継承されていった時期に当たります。この間以下のようなイベントがありました。
  • 大正2年(1913):栄三郎副社長(太助長男)逝く (39歳)
  • 大正5年(1916):貝島礦業(株)初代社長太助逝去、栄四郎(太助次男)社長に就任(途中外遊中の2年間を除き、昭和6年まで)  
  • 大正6年(1917):鮎川義介 貝島家顧問代理に就任(昭和2年まで) 
  • 大正8年(1919):貝島合名会社(持株会社)、貝島商事(株)設立 (合名・礦業・商事の三社体制) 
  • 大正9年(1920):自社炭の自主販売権を恢復(1891年よりの三井物産との石炭委託販売契約を解約
上表の数字が示すように、この間に出炭量は倍増近い増大実績を得ているが、対筑豊及び対全国出炭比率は微減となっています

3)高宮貝島本家時代(昭和2年~昭和28年)

 本邸を昭和2年に直方西尾より高宮に移築・転居してから、第二次世界大戦を経て、健次が没するまでの期間であります。なお、昭和25年からは本家の格称はやめ高宮貝島家と称した) 因みに昭和2年は、福岡にて東亜勧業博覧会開催され、市が急速に発展し始めた年ともいわれています。
 健次は 貝島乾留(株)社長を大正14年から(途中石灰工業を合併して貝島化学工業(株)社長として)昭和18年まで務めましたが、その間は西宮別邸や京都別邸に逗留する期間が相当多くありました。また、昭和13年より貝島合名会社社員会長 及び一族会会長を昭和25年の解散時まで務め、一族各家間の調整やとりまとめなどに当たりました。
さらに戦後は 昭和25年より28年に没するまで大辻炭礦(株)社長を務めました。
 なお健次の長男 孝(1906~1946年)は、学業のため高宮邸を離れていましたが、大学卒業後 神戸支店勤務となるまでの間(昭和7~10年)には貝島炭礦若松支店勤務でしたので小倉の社宅に居たが)屡々高宮にも逗留していた模様です。

 この間、戦前期の高宮貝本家では;
  • 孝の京都帝国大学卒業と結婚(昭和6年)
  • 友泉亭の購入・増築/庭園整備工事(昭和8年完成)
  • 孝 神戸出張所勤務開始/孝一家西宮邸に転居(昭和10年)
  • ヒロ/嘉蔵逝去(昭和10年)
  • 奈多・軽井沢別荘の購入及び邸内新館の建設(昭和11~13年)
など(嘉蔵夫妻逝去を除き)慶事が多くありました。
他方戦中・戦後期には;
  • 孝 高宮にて病臥を始む(昭和18年)
  • 孝の家族の西宮宅から高宮本邸への疎開(昭和20年から1年間)
  • 孝逝去(昭和21年)
  • 財産税など戦後諸法制への対応
  • 進駐軍による本邸家屋の大部分の接収(昭和21~27年)
など、高宮邸は戦災は免れたものの一家にとっては苦難の年月が続きました。
しかし、昭和25年頃からはようやく戦後の困難な時期を脱し、健次にとっては大辻炭礦社長就任・邸の進駐軍接収解除も成った最晩年でした。
炭礦会社では、この間次のようなイベントがありました。
  • 昭和2年(1927):久原鉱業(株)の債務整理のため巨額の貝島家資産を提供 
  • 昭和6年(1931):貝島炭礦(株)の発足(貝島礦業が商業・大辻岩屋炭坑を合併。社長貝島太市――以後戦時中会長の時期もあったが昭和38年まで社長に在任 
  • 昭和15年(1940):華北占領地域の井陘炭鉱に出資、経営に当たる
  • 昭和19年(1944):各炭鉱軍需工場指定を受く
  • 昭和21年(1946):戦後復興に尽力、労働争議頻発、政府は傾斜生産方式決定
  • 昭和25年(1950):合名会社・一族会解散 →貝島親和会に。大辻炭礦設立。岩屋炭坑売却。
  • 昭和27年(1952):貝島炭礦株式公開
  • 昭和28年(1953):東部開発工事竣工、太市(健次没後を受けて)大辻炭坑社長・貝島親和会会長にも就任

4)健次没後(昭和29年以後)

 孝没後(昭和21年~)孝の子弟(四代目)は、健次の意向にそって西宮邸に留まって養育され、次いで東京に転居して学業を終え、それぞれ炭鉱業とは無関係の業種に就職しました。
 健次・タケ没後(昭和29年~)も 高宮邸は無主のまま維持され、孝の遺族がたまに利用する程度でありました。このような事情から高宮邸は、昭和29以後 昭和51年の倒産に至るまでの大辻・貝島炭礦の浮沈には無関係な佇まいでありつづけました。
健次没後の炭鉱会社の動向については記載省略。

 その後平成9年に至り、高宮邸の地所は第2次緑地指定を受け、福岡市は公園開設に向けた動きを始めることとなります。
ーーこの辺りの事情や、高宮邸の蔵が平成15年まで健次存命の頃の状態のまま残されていたこと、収蔵されていた文物多数が今も福岡市総合図書館ほかに残されていること、またこのような稀有な偶然が旧高宮貝島邸の特徴の一つにもなっていること、などについては、別の機会に紹介することとしましょう。

  

【3】高宮貝島邸での嘉蔵家の家風について


概要
 上述の嘉蔵家の歴史から分かるように、嘉蔵・健次ともに炭坑現場で坑長を務めた経歴のある人物でありますが、高宮邸での嘉蔵家(即ち高宮貝島本家)は、炭坑現場とはやや隔絶した家風になっていたと想像されます。政界との付き合いはなく、ビジネス上の会合や派手な宴席などは高宮邸で催されることは少なかったようです。(他方親戚も列席する仏事の方は多くありました)
嘉蔵はすでに円熟した朗らかな人物であったし、健次・孝は東京や京都で高等教育を受けたハイカラな教養人でもありました。(健次は二度の洋行経験もあり)

嘉蔵家三代の記念写真
 下は、昭和6年11月高宮邸の玄関前で撮影された高宮貝島本家三代が勢揃いした写真です。(孝・艶子の京都での結婚式直後のお国入りの時のものです)
建物もそうですが、上質であっても華美ではない質実な風情が感じられるのではないでしょうか。




当主たちの趣味・嗜好
 上の写真の三代の当主たちはそれぞれ高宮邸にマッチした(と筆者が思う)趣味・嗜好を持っていましたが、ここでは嘉蔵と健次のもののみを紹介します。
嘉蔵
  • 読書(読み聞かせを聞く)
  • 浄瑠璃、文楽見物
  • 仏道聴聞
  • その他、盲学校支援や建築(計画と現場監督)
健次
  • 囲碁
  • 謡(宝生流)、能楽鑑賞、文楽見物
  • 絵画(地方画家の松永冠山・水上泰生らを贔屓に。自らも高宮山人と号して描いた)
  • 骨董蒐集(主に京都別邸で)
  • 酒食(ドライマティニーや灘の清酒、ふぐ料理などが好物)
これらは家風の一端を示すものですが、それぞれに価値ある作品や記念品が残されていたり、それ自体が奥深い芸道であったりしますし、当時の財界人が身に着け 肩入れした文化でもありました。
それ故、修復・整備後の高宮邸とともに適切な展示や稽古教室を開くなどすれば、現代人にも共感が得られ、旧高宮邸の登録文化財建築のより良い活用に繋げることが出来るのではないでしょうか。
ーー当主たちの趣味・嗜好については、今回はここまでにとどめ、別途より具体的な資料等を示すことにしましょう。


【4】まとめ


 今回は嘉蔵家の歴史とその家風について概略を記述しました。今後増補して行く予定の諸資料の位置づけを理解しやすくすることを目的としたものですが、さらには旧高宮貝島邸が単に「残された炭坑主の旧邸宅の貴重な一例」ではなく、特有の歴史と文化をもった地所であり遺構であることの理解に向けた基礎資料ともなれば幸甚です。
 
 参考として、福岡市総合図書館 第2回文書資料企画展「炭礦王 貝島氏展」(平成11年3~4月)のパンフレットを付しました。
    Downloadはこちらから(pdfファイル、3.3MB)   TKR05_att-2
       

 








2018年7月16日月曜日

TKR_04 貝島炭礦とは

旧高宮貝島邸関係資料の紹介と本文庫収録を続けて行くにあたり、今回は邸の当主たちが経営に関わり、彼ら一家の経済的基盤でもあった「貝島炭礦」について、ごく簡単に概略をまとめておきたいと思います。

貝島炭鉱の概略

 かっての貝島炭礦は、筑豊地域のほぽ真ん中に位置し、東西8キロ,南北4キロにわたる鉱区総面積約 1,708 ヘクタールの炭鉱で、最盛期であった1961(昭和36)年には、関係従業員1万2,000人以上を数えた。幼少時代から裸一貫で叩きあげた貝島太助(1845-1916)が開いた地元の同族経営の会社で,1885(明治18)年に大之浦抗が開かれて以来、安川、麻生と並び、地元炭鉱資本「筑豊御三家」のひとつと謳われた。そして1896(明治29)年ごろ,安川を追い抜いて筑豊第一の地元炭鉱企業家の地位を固めた。1903(明治36)年の資料によれば、筑豊における貝島の出炭量は,最大級の三菱に次いで弟2位、全国では三井,北炭,三菱に次いで第4位を占め、中央財閥と肩を並べるまでに成長した。
 1976 (昭和51)年に完全閉山するまで91年間採掘が行われたが、筑豊で抗内掘りが続けられた最後の炭鉱である。貝島炭礦の累計総出炭量は約1億トンとされる。
 また、炭鉱私学の初めといわれる私立の小学校や 奨学金制度である「育英事業」、会社経営の職業訓練所などにみられるように、その労使関係は極めて温情主義的、あるいは搾取と抑圧が巧みにカモフラージュされたものともいわれてきた。囚人労働も少なく、所謂「川筋気質」、筑豊の坑夫独特の荒っぽさのない,伝統的におとなしい性貿の労働者を作り上げることに成功したとされている。
 (以上の十数行は後述する写真集「炭鉱往歳」の解説文よりの抜粋をもとに記述)

 貝島炭礦の本拠のあった大之浦地区は、国鉄宮田線がなくなった現在、直方駅からバス/タクシーで20分ほどかかるが、ここに「宮若市石炭記念館」が在る。建物は旧大之浦小学校の校舎をそのまま生かした懐かしい雰囲気で、「貝島炭鉱の歴史を網羅!」 のキャッチフレーズどおり充実した展示と収蔵資料がある。

「貝島炭礦」を紹介する簡単なパンフレット(百合野山荘 資産調査・分析スタッフ編集のパンフの一部、2017年)




もう少し詳しい概要を知りたい方への参考資料


 貝島炭礦の関する本格的な書籍や研究書は沢山ありますが、同炭礦の比較的短い紹介記述のある資料としては、次の二つが適切かと思います。
   ① 「宮若市石炭産業遺産 貝島炭礦」(A4版、全24ページ)
  「貝島百合野山荘」市民の会発行、2017年5月)
   ② 「炭鉱往歳ー本田辰己写真集」のうち「写真の背景」「解説」のページ
   (変形B4版、10ページ分)--乾由紀子文、れんが書房新社発行、1999年

両書の紹介とDownload
 ①は、2015年の貝島太助100回忌を機縁に宮若市と近隣の市民有志が立ち上げた会が、宮若市石炭記念館や有識者などの協力を得てまとめたものと承知しています。
現代の郷土在住市民にとって、40年以上前に閉山した貝島炭礦を想起することの意義といった視点を持って、多数の写真を収録しつつコンパクトとにまとめられた同炭鉱の紹介書です。
  ここからDownload  201807_TKR04_att-1
          (pdf ファイル、5.0MB、閲覧のみ可の設定)   

 ②の写真集本体は、元貝島炭礦坑夫の本田さんが在職中、及び閉山・転職後に故郷に戻って撮りだめた写真からなる本です。ここに紹介するテキスト部分の執筆者の乾さんは、稼働中の炭坑を知らない世代の人ですが、本田さんの写真の背景となる筑豊の炭坑と炭坑社会の歴史、戦後の炭坑合理化への道、石炭政策などをも良く調べてコンパクトにまとめてあり、且つこの写真を生んだ貝島炭礦や宮田町の気風が押しつけがましくなく描かれています。
  ここからDownload  201807_TKR04_att-2
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TKR_16 嘉蔵と竹本津太夫(番外)

ーー国立文楽劇場での特別展示ーー 2019年9月28日より11月24日までの期間、国立文楽劇場(大阪)にて特別企画展示「紋下の家 ―竹本津太夫家に伝わる名品ー 」が開催されています。 今回はこの展示のうち貝島家に関係する部分を中心に展示の概要を説明します。 ...