2018年8月30日木曜日

TKR_09 友泉亭庭園について(その1)

今回は昭和4年高宮貝島家2代目当主の健次が購入して整備し、昭和29年まで所有していた友泉亭庭園について、筆者が知るところを根拠文献を紹介しながら記述します。
現在の友泉亭公園では、単に風光明媚な庭園と池辺の座敷が維持・公開されているだけに等しく、その黒田藩以来の歴史とか、現存建築物の由来や特徴とか、嘗てここにあった黒田家のお居間のことなどが十分紹介されていないのは残念なことです。
たまたま亡兄が平成10年の名勝指定時に貝島家資料を提供するなど、市当局に協力したことがあったため、一定の文献コピーが手許に残っているので、以下のような説明が可能となりました。
ここに述べるようなことに興味を持って下さり、更なる調査研究を行ったり、来訪者に喜ばれるような展示法などを考案される方が現れることを期待したいと思います。

なお、黒田家のお居間や そこの障壁画として健次が松永冠山に描かせた杉戸絵については、次回(その2)にて記述します。


【1】友泉亭の短い紹介

詳しい説明記述に入る前に、福岡市経済観光局 文化財保護課のウェブサイトより、次の短い紹介文を付します。
  • 六代福岡藩主黒田継高が旧早良郡田島村に設けた別荘。名称は藩儒竹田定直が撰んだ久世通夏の「世にたへぬあつさもしらずわき出る 泉を友とむすぶいほりを」による。
  • 昭和初期には樋井川村役場として利用。その後所有者の変転で荒廃していたが、苑池の地割や石組に従って池泉回遊式の庭園を復元整備して、昭56年から一般に公開している。
  • なお、現存する建物は、昭和初年貝島家によって建てられたもので、近代和風建築の遺構として貴重である。


公開されている二三のウェブサイト

▷ 現状の友泉亭公園の写真としては次のウェブサイト「友泉亭に行ってみた」が充実していると思います。 
   ここから閲覧可能です。  TKR09_link-1
▷ また、友泉亭のパンフレットに貝島家の「か」の字もないと不満気な「九州へリテージ・雑記帳」もあります。 
   ここから閲覧可能です。  TKR09_link-2


【2】高宮貝島家による改修に至るまでの友泉亭

以下は平成10年の名勝指定に先立って福岡市により纏められた「平成9年度福岡市指定文化財指定調書」の記述内容を、筆者が年代区分を整理のうえ箇条書きにしたものです。(緑色文字が引き写した記述)
  • 友泉亭は、享保の大飢饉後の政治改革に一区切りがついた宝暦4年(1754)、6代藩主黒田継高(17031775)が早良都田島村に設けた藩主の別荘である。友泉亭の名称は藩儒竹田定直か撰んだ久世通夏の「世にたへぬあつさもしらず わき出る泉を友とむすぷいほりを」による。
  • 藩主の遊興・保養、緊急時の避難場所、政治・軍事上の機密を要する合議の場として利用された様だ。
  • 友泉亭の往事のたたずまいを伝える記録として、『筑前国続風土記附録』と『筑前国続風土記拾遺』の景観叙述がある。絵画資料としては、『筑前国続風土記附録』と『尾形家絵画資料』(4262)の鳥瞰図がある。
  • わずかな資料であるが、樋井川の流れを導き入れたらしい遣り水、事前に広がる池泉と中島、真砂を敷いた岩組の庭、四時の花木、対岸の小丘陵、それらを回遊するための小径と橋、などが想定される。
  • 大名庭園としては広大さを誇る所がなく、むしろ質実・質素である点が特徴になっている。それは経済的理由によるだけでなく、如水・長政時代の質素・倹約を徳とした継高の武人的側面の表現であったとも考えられる。
  • 工作物のうち、慶長181613)年銘の五輪塔は造立年代からも、特殊な銘からも貴重である。中間市や北九州市の堀川には大規模な唐戸(水門)が残るが、友泉亭には河水の取水口だった考えられる東南隅に水門の一部が残る。当初のものとすれば、これもまた貴重である。
  • 植生にあっては、シイ・カシ・イヌ マキの大木、樹齢200300年と推定されているキンモクセイ等々、がかつての庭園の有り様を伝えている。
  • 明治維新後には樋井川村所有となり、小学校や役揚として利用された。
  • 地上物件につき、一部家屋の解体・売却、樋井川村所有後、程度は不明であるが、花木・庭石・立木の売却があった。


* 「筑前国続風土記附録」の図は、ここ TKR09_att-1 を参照。福岡城を遠望し、桶井川の流れを水源にした池泉や中島を配した庭園の様子が描かれている。


【3】貝島健次による友泉亭買収と整備

  • 昭和4年(1929年)樋井川村は友泉亭の土地・建物を松永八百蔵に売却。代金壱萬六千六百弐拾八円。高宮貝島本家の別荘となる。松永八百蔵は名義人で実質は貝島健次が買収したもの。なお、八百蔵は健次の義母ヒロの甥で、当時会社の下僚としていた。
  • 健次は庭園を改修し、既存建物(江戸期遺構)の修繕や別荘母屋を新築するなどを行い、昭和9年4月に整備を完了。
整備後の高宮貝島家時代の友泉亭建築物平面図を、ここ TKR09_att-1a  に示します。―― この図にて、江戸期機構と新築母屋、及び福岡市による公園整備後も残された現存建物部分を見て取ることが出来ます。(なお貝島家による整備後の友泉亭敷地全体図は、次項に付した TKR09_att-2 を参照方)
  • さらに昭和11年10月には友泉亭内黒田家御居間の杉戸絵完成を待って各界名士を招いて別荘披き開催。また昭和15年に、健次は黒田長禮侯爵を友泉亭に招待して植樹をしていただいている。



   ● 昭和4年、貝島家所有後の改変については若干のことが知られる。
▷  池泉の掘削と埋立てが行われた。その程度と場所については不明。現存する建物は永野善兵衛[1](地行東町住)を棟梁とした10名余の手になったもので、古家の解体と古家の修繕も行った。
  庭園は山根久吉(博多普賢堂町住)を中心とした庭師の手になったもので、「旧中島」に対して「新小島」を築き、「新島橋台を作り、また、瀧の石積みをして瀧作りを行った。
  各種の椿を京都に注文して植樹した[2]
  さらに、修繕した黒田家御居間には、次回説明するように松永冠山に杉戸絵を描かせた。(昭和1011年)
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[1] 貝島家の資料で永野・長野の表記の混同が見られる、領収書の署名から長野が正しい模様。長野善兵衛は嘉蔵邸を直方の西尾の地から高宮に移築(昭和2年に完成、移築とされるが一部は新築)した時の棟梁でもある。健次は長野を戦後まで重用していた模様。  
[2] 健次夫人のタケは草月流華道に親しみ椿を愛した。この椿の取り寄せはのタケ意向であったという。


【4】高宮貝島本家 保有時以後の経緯

健次没後の所有者変遷経緯は以下の通り。
  • 健次没後の昭和29年(1954年)友泉亭は大辻炭鉱へ売却され、借家・社員宅として使用された。 (大辻炭坑は健次が社長であった会社
昭和42年(1967年)博多港開発株式会社の所有となる。
昭和53年(1978年)福岡市の所有となり、都市計画公園に計画決定。
昭和56年(1981年)「友泉亭公園」開園。
平成10年(1998年)福岡市の文化財(名勝)に指定。
  • 所有者の変転で荒廃していたが、福岡市の所有となって以後、苑地の地割や石組に従って池泉回遊式の庭園を復元整備して昭和56年より公園として一般に公開している。このとき老朽化を理由に江戸期の遺構である黒田家御居間は取り壊されてしまったが、礎石列は保存されている。 
  • 貝島家時代の平面図と 市による整備後の現況公園施設配置図を比較したものを、ここ TKR09_att-2  に示します。
(この比較図から判るように、友泉亭に現存している近代和風建築は貝島健次によって建てられたものの一部です。)


【5】ここまでのまとめと友泉亭年表

以上総じて、 明治維新後、樋井川村役場時代、貝島家時代、公園整備時代を通じ、著しい改変があった様子はなく、基本的な構成は現在に継承されているものと考えられる。友泉亭庭園は池泉回遊式の大名庭園の遺構として、また、様々な歴史を重層的に含みもった遺構として極めて貴重である。

なお、友泉亭年表はここ TKR09_att-3  を参照方。
(この年表も「平成9年度福岡市指定文化財指定調書」所収のものをもとに一部のみ添削を加えたものです。)


【6】付言

上述のように、友泉亭の現存建築物も、旧高宮貝島邸の現存建築物も、ともに長野善兵衛(永野とも書く)が棟梁(乃至それに近い立場)として建てた近代和風建築である。しかしながら両者の建築学的な本格的比較調査・研究が未だなされておらず、また長野善兵衛の経歴や棟梁としての系譜が未だ良く解明されていないのは残念なことである。
今後関心をもって研究される方が現れることを期待したい。


【7】根拠文献に関する筆者メモ(非公開)

2018年8月13日月曜日

TKR_08 旧高宮邸内の雑木山について

今回は旧高宮邸敷地面積の 1/3 以上を占める雑木山について紹介します。
筆者自身も、ここ雑木山に三十数年来足を踏み入れていないので、現状をよく知っているわけではないのですが、健次存命中の嘗ての姿(S2~S28年)の情報も、今後の整備・活用の参考となることもあろうかと考えて紹介する次第です。


旧高宮邸敷地全体図(福岡市提供)

【1】概要

雑木山は右図の高宮邸敷地の南の部分に存し、幅約95m・奥行き約75mほどの面積で、その頂上部は母屋の地盤より約7.5m高くなっています。(敷地入り口付近の道路面からは約18m高) そして色々な種類の大木の樹林に覆われ、中に入ると野趣の感じさせる雑木山でした。

雑木山説明図
(雑木山等高線図にS55年当時の平面図を重ね書きしたもの)
     (参考) S55年当時の平面図はこちら; TKR08_att-1

【2】健次存命中の雑木山の様子

雑木山部分は、緑地指定を受けてS56~62年度に福岡市に譲渡した部分です。その時点までは健次存命中(~S28年)とほぼ同じ姿を保っていました。当時の様子を今後の雑木山の整備・活用の参考として説明します。
2015年撮影の雑木山中の社(市職員提供)
高宮神社 
 雑木山の頂上部には高宮神社と称したお宮がありました。社はS2年の西尾からの建物移築時に、西尾以外のどこかから移築されたものであることが記録に残っていますが詳細は判っていません。炭坑主の邸内の神社ですから、山の神系統であろうと思われますが、由来についての口伝はありませんでした。 社は、2015年現在未だ現地に残されている由です。 


▷礼拝堂 
 南の端の位置に鉄筋コンクリート造りの礼拝堂がありました。これはS11年に建設されたものですが、S58年頃市への底地譲渡時に取り壊しました。内部には丈六の阿弥陀仏と持仏が安置され、仏事のときには僧侶も参列者も立ったままでお参りしていました。 健次がどのような思いから礼拝堂を建設したかについてはよく判ってはいません。
雑木山内の遊歩道
 図に示すように、南庭の南東端に遊歩道の入り口があり、道はすぐに二股に分かれて神社または礼拝堂に通じていました。
その他の建物等
 図中神社境内の  の位置にあたりに明治の元勲(井上馨及び伊藤博文)よりお手植えを受けた松及び檜の記念碑が現存している由であります。S2年の西尾からの移築時にこの記念碑も持って来られたのでしょう。
 同じく の位置に六角亭(ちん)があり、その前、社寄りに石造りの鳥居がありましたが、S24年頃でしたか雑木山中に掘った大型防空壕が陥没してこの辺りに大穴があき、崩れたため再建されなかったかと思います。
 同じく の位置には梅の亭(ちん)がありましたが、戦後期には既に崩れかかっていました。 
雑木山内の植生 
 雑木山内の植生はごく一部を除いて自然植生であったと思っています。主たる樹木の種類については、(筆者は詳しくないので)詳しい方に現状を解説して頂くほかないところですが、樫、椎、など広葉樹が多く、また背の高い松の大木も多数あったのですが戦後松くい虫により枯れてしまいました。
 Ⓐ の部分には孟宗竹の林がありました。(現在邸内各所に孟宗竹がはびこっているようであるが、嘗てはここだけに存在した。)
 Ⓑ の部分にそう多数ではではないが栗の木がありました。
 Ⓒ の南庭に雑木山が接する部分には、梅の木が並べて植えられていました。
そのほか梅の亭から神社までの遊歩道には紅葉の木も植えられていたように記憶します。 
大型防空壕 
 S20年全国的に空襲が激化する時代に、この雑木山の横腹に急遽大型の防空壕が掘られ、警報発令時には家族・家人のみならず近隣住民も収容しました。炭坑から来た抗夫がトロッコも使って掘り、その土砂は枯れ山水部を埋めました。壕の入口は茶庭の先辺りに在り、横穴は丸太を組んで支えられておりましたし、電気も引かれていた記憶があります。(なお、この防空壕の設計図は残されています。)  戦後S24年頃でしたか、何カ所かで陥没が発生し、S27年までには埋め戻し工事を済ませました。

【3】雑木山の使われ方

雑木山の樹林に足を踏み入れると、木々に遮られて神社前の高台でも眺望が効かない程で、非日常的な空間となります。健次が雑木山を散策することはまれであったように思いますが、高宮神社には正月と5月5日の祭礼の折、親類縁者も招いて一緒に参拝していたし、礼拝堂にも親類縁者と共に出向いて仏事を行うことがありました。また、春には家人が孟宗竹林から筍を掘り、秋には栗を採ってもたらしました。さらに健次夫人竹子は草月流の華道を能くした人で、時に雑木山に入って枝などの材料を集めることもあったようです。
勿論筆者ら子供たちは、高宮邸逗留時にはよく遊びに入ったものです。
このように、時に足を踏み入れ普段は南庭から風にそよぐ木々の梢を眺めたりする雑木山は、高宮邸が持つ独特の雰囲気を醸すものであり、当主家族や家人に愛されたものです。

因みに高宮貝島本家の執事日記は福岡市総合図書館に寄贈・公開されていますが、その中に S5年5月5日の高宮神社祭礼日の記事があります。何人くらいの客を招いてどんなハプニングがあったか、もしご興味があればこちらから。 TKR08_att-2


【4】付言

雑木山をどのように整備して公開・活用するかにつき、下記が参考になろうかと思います。
  • 礼拝堂付近から神社境内へは子供でも容易に登れたので、散策路を追加して回遊路とすることは困難ではない筈。
  • しかし、山中に神社・礼拝堂のような施設が何もないまま、散策回遊路のみとしたのでは魅力が乏しいものとなろう。
  • 礼拝堂跡の辺りは邸周囲の道路との高低差があまり無いので、道路からもアクセスできる施設(例えば雑木山の植物・生物に親しむよう指導するボランティアの拠点、自動販売機カフェ兼営)を作ることが出来るかもしれない。
  • 雑木山北西面の樹木を一部切り開くことにより、神社境内の一部箇所から邸内の建物が見晴らせるように整備できるかもしれない。
  • 散策路以外はボランティア・グループ以外は立ち入り禁止とするのも一方策。



2018年8月1日水曜日

TKR_07 雪の高宮邸スライドショウ

今回は平成2年(1990)1月24日撮影の写真のスライドショウにより、その後の建物改変工事等により荒される前の高宮貝島邸の「室外から見た姿」を紹介します。
この写真は、珍しく雪が積もったので、当時福岡に逗留して諸工事の準備をしていた亡兄が撮影する気を起こしたものと思われますが、門や庭が未だ健次存命の頃の状態を留めており貴重だと思っています。
スライドショウは、高宮邸の訪問者が玄関に至るまでに見る風景、南庭に招き入れられたとき見る風景、が再現ないし想像できるような順序に並べてあります。

敷地平面図による撮影位置概略説明

下図により、スライドショウ(残念ながらナレーションを付け得ていない)を見る前に、次の事項を理解してください。

スライドショウ事前説明のための高宮邸平面図
上図を拡大して視るには次の pdf ファイルを利用してください。
    TKR07_att-1

▷入口から玄関までのアプローチ:

  • 敷地北東部の高宮駅に一番近いところにある入口から大木に覆われた坂道を登ります。
  • するとやや右手に曲がったところに本門が現れます。(本門は現在は撤去済みとのこと)
  • 門をくぐってさらにカーブした坂道をへて玄関前のロータリーに至ります。
  • 此処からは、右手手前に2階建て新館の玄関、正面右手に内玄関、正面に本玄関、左手に南庭の入り口となる脇門、を見ることが出来ます。(新館、脇門は撤去済み)

▷南庭に入って散策:

  • 脇門を入ると、現「洋室」の軒先を通って南庭と呼ぶ庭に出ます。ここはかなり広い芝生の庭で、砂利の小路がつけてあました。もっともよく使われ親しまれた庭でした。
  • 南庭中央付近からは、北に洋室、西に本座敷または南八畳、南に雑木山、東の庭端は木立が見ることが出来ます。
  • 南八畳の南方には竹垣に囲まれた茶庭があり、その奥に移設前の茶室がありました。

▷その他:

  • 南庭の南方、茶庭のまえの道をさらに西方に歩くと、下り坂となり枯山水の庭がありました。
  • 邸内のいろいろなところに椿がありますが、これは健次夫人の竹子(萩出身)が椿を愛し、萩や西宮から取り寄せて植えさせたものです。


雪の高宮邸スライドショウ

スライドショウは Youtube形式としてあります。写真枚数28枚、時間は3分30秒ほどです。(ナレーションは付け得ていません)
    閲覧はここから   TKR07_att-2

なお28枚の構成写真の説明表は次の通りです。
    閲覧/Downloadはここから   TKR07_att-3



他の写真

次の3枚はいずれも昭和47(1972)年正月に撮影したもので、未だ邸の建物・庭園の手入れが行き届いていたころのものです。


本門
本門を過ぎたところ

南庭:南八畳・茶庭・雑木山が見える
(未だ背の高い松の木が残っている)

次の2枚はS56年に撮影されたものです。

本門
脇門・本玄関前ロータリー


付言

今回は雪の高宮邸スライドショウを中心に、高宮邸来訪者が目にし、また当主家族が親しんだ南庭から見た風景(それも本来の姿)を示しました。
ここで、文化財指定を受けた建物自体は今後妥当な修復が行われる運びとなっていますが、邸の品格を示す入口から玄関までのアプローチや、南庭をいかに整備するか、といった建築物以外については必ずしも明確になっていない模様です。
今回の資料も参考として、この辺りの検討や議論が進む事を期待したいと思っています。

なお、雑木山については別の機会に紹介することとしたいと考えています。


TKR_16 嘉蔵と竹本津太夫(番外)

ーー国立文楽劇場での特別展示ーー 2019年9月28日より11月24日までの期間、国立文楽劇場(大阪)にて特別企画展示「紋下の家 ―竹本津太夫家に伝わる名品ー 」が開催されています。 今回はこの展示のうち貝島家に関係する部分を中心に展示の概要を説明します。 ...