貝島炭鉱の概略
かっての貝島炭礦は、筑豊地域のほぽ真ん中に位置し、東西8キロ,南北4キロにわたる鉱区総面積約 1,708 ヘクタールの炭鉱で、最盛期であった1961(昭和36)年には、関係従業員1万2,000人以上を数えた。幼少時代から裸一貫で叩きあげた貝島太助(1845-1916)が開いた地元の同族経営の会社で,1885(明治18)年に大之浦抗が開かれて以来、安川、麻生と並び、地元炭鉱資本「筑豊御三家」のひとつと謳われた。そして1896(明治29)年ごろ,安川を追い抜いて筑豊第一の地元炭鉱企業家の地位を固めた。1903(明治36)年の資料によれば、筑豊における貝島の出炭量は,最大級の三菱に次いで弟2位、全国では三井,北炭,三菱に次いで第4位を占め、中央財閥と肩を並べるまでに成長した。
1976 (昭和51)年に完全閉山するまで91年間採掘が行われたが、筑豊で抗内掘りが続けられた最後の炭鉱である。貝島炭礦の累計総出炭量は約1億トンとされる。
また、炭鉱私学の初めといわれる私立の小学校や 奨学金制度である「育英事業」、会社経営の職業訓練所などにみられるように、その労使関係は極めて温情主義的、あるいは搾取と抑圧が巧みにカモフラージュされたものともいわれてきた。囚人労働も少なく、所謂「川筋気質」、筑豊の坑夫独特の荒っぽさのない,伝統的におとなしい性貿の労働者を作り上げることに成功したとされている。
(以上の十数行は後述する写真集「炭鉱往歳」の解説文よりの抜粋をもとに記述)
貝島炭礦の本拠のあった大之浦地区は、国鉄宮田線がなくなった現在、直方駅からバス/タクシーで20分ほどかかるが、ここに「宮若市石炭記念館」が在る。建物は旧大之浦小学校の校舎をそのまま生かした懐かしい雰囲気で、「貝島炭鉱の歴史を網羅!」 のキャッチフレーズどおり充実した展示と収蔵資料がある。
「貝島炭礦」を紹介する簡単なパンフレット(百合野山荘 資産調査・分析スタッフ編集のパンフの一部、2017年)
(以上の十数行は後述する写真集「炭鉱往歳」の解説文よりの抜粋をもとに記述)
貝島炭礦の本拠のあった大之浦地区は、国鉄宮田線がなくなった現在、直方駅からバス/タクシーで20分ほどかかるが、ここに「宮若市石炭記念館」が在る。建物は旧大之浦小学校の校舎をそのまま生かした懐かしい雰囲気で、「貝島炭鉱の歴史を網羅!」 のキャッチフレーズどおり充実した展示と収蔵資料がある。
「貝島炭礦」を紹介する簡単なパンフレット(百合野山荘 資産調査・分析スタッフ編集のパンフの一部、2017年)
貝島炭礦の関する本格的な書籍や研究書は沢山ありますが、同炭礦の比較的短い紹介記述のある資料としては、次の二つが適切かと思います。
① 「宮若市石炭産業遺産 貝島炭礦」(A4版、全24ページ)
「貝島百合野山荘」市民の会発行、2017年5月)
② 「炭鉱往歳ー本田辰己写真集」のうち「写真の背景」「解説」のページ
(変形B4版、10ページ分)--乾由紀子文、れんが書房新社発行、1999年
両書の紹介とDownload
①は、2015年の貝島太助100回忌を機縁に宮若市と近隣の市民有志が立ち上げた会が、宮若市石炭記念館や有識者などの協力を得てまとめたものと承知しています。
現代の郷土在住市民にとって、40年以上前に閉山した貝島炭礦を想起することの意義といった視点を持って、多数の写真を収録しつつコンパクトとにまとめられた同炭鉱の紹介書です。
ここからDownload 201807_TKR04_att-1
(pdf ファイル、5.0MB、閲覧のみ可の設定)
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②の写真集本体は、元貝島炭礦坑夫の本田さんが在職中、及び閉山・転職後に故郷に戻って撮りだめた写真からなる本です。ここに紹介するテキスト部分の執筆者の乾さんは、稼働中の炭坑を知らない世代の人ですが、本田さんの写真の背景となる筑豊の炭坑と炭坑社会の歴史、戦後の炭坑合理化への道、石炭政策などをも良く調べてコンパクトにまとめてあり、且つこの写真を生んだ貝島炭礦や宮田町の気風が押しつけがましくなく描かれています。
ここからDownload 201807_TKR04_att-2
(pdf ファイル、11.8MB、閲覧のみ可の設定)
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