2018年11月7日水曜日

TKR_11 建築に対する嘉蔵の造詣と高宮邸を建てた大工棟梁について


旧高宮貝島邸が建てられた時期の近代和風建築は、(勿論その規模については、かける金額や時代の趨勢の影響も大きいのでしょうが)現代のような独立した設計者が存在したわけではなく、建築の姿の美しさや住み心地については大工棟梁の伝統に基づく感性と技術が左右したと考えられ、また建築主が大工棟梁との対話を通じて実現したところも少なくない筈と考えられます。
今回、標題について記述するのは、施主及び大工棟梁の人物像が、高宮の現存建物の価値を考察し伝えて行くうえでも重要と考えたからです。
未だよく分かっていないところが多いのですが、下に筆者の知るところを紹介し、さらなる研究が進むことを期待したいと思います。


【1】旧高宮貝島邸の建築物に関するの学術的資料について


1-1.学術的資料リスト


 先ず標記の学術的資料として、1998~2000年にまとめられた下記3つの資料を紹介します。筆者が知る限りこれ以後にはより詳しい建築学的調査は実施されていません。
(1) 川上秀人・松岡高弘「貝島家建築物調査報告書」(1998年3月)(未公開) [全56ページ] 
(2) 森山恵香・松岡高弘・川上秀人・高橋秀「旧貝島嘉蔵邸の建築について ー貝島家の住宅について(その5)ー」日本建築学会九州支部研究報告(1999年3月)[全4ページ] 
(3) 松岡高弘・川上秀人「筑豊の炭坑主の住宅 ―麻生家と貝島家の住宅ー」(近畿大学九州工学部図書館地域資料室篇『筑豊近代化大年表(大正編)』所載、2000年)[全16ページ]

1-2.各学術的資料の概要


  • このうち (1) (2)  は当時の貝島邸(現存の建築の約3倍の規模を持ち、昭和2年に直方西尾から移築された時の姿に近い)の詳細な調査に立脚し、得られた史料を用いて西尾に新築当時(大正4年とされる)の邸の復元をも試みています。(残念ながら、西尾邸新築当時の一次史料は少ししか残されていないのですが、少ない資料から説得力のある復元がなされていると思います
  • ここで「詳細な調査に立脚」とした内容は、建築の詳細な寸法実測、小屋裏内部や屋根に登ってまでの見分や写真撮影、一次史料(領収書などにも及ぶ)の見分などをも含む極めて詳細なものです。現在では建物の内外を高速で細密にレーザースキャン(RGB画像情報付き)をする器械と、取得データから3Dモックアップを作成するソフトが実用化されていますが、当時の調査データからも 手をかければ同様のモックアップが作製出来る筈と思えるほどの調査がなされています。
  • また、(3)に於いては、麻生家3邸、貝島家4邸の建築調査結果による平面図を示すとともに、その規模及び間取りなどの比較をもとに論考が進められています。下表は同資料のものに筆者が各邸の竣工年情報を挿入したものです。

上の三つの学術的資料の抜粋(目次及び調査時の高宮邸平面図等)を、ここ TKR11_att-1 に示します。


1-3.これら学術的資料についての筆者の感想


  • これらの学術的資料は川上・松岡両先生による貴重な労作であります。特に (1) は福岡市の求めに応じて纏められたものと理解しているが、この資料に示された価値評価がベースになって高宮邸の一部保存・活用の福岡市当局判断に繋がったものと、あらためて感謝しているところです。
  • しかし学術的資料であるところから 根拠データのないものは対象としないのは当然とはいえ、施主の当該建築にかけた思いとか、大工棟梁の人物像とかの、史料のほとんど残っていない「人間くさい」分野にまでは話が及んでいません。((1)には、下に紹介する短い大工棟梁関連記述があるが、(2)(3) 及び他の資料(2017年の福岡市の市登録有形文化財指定時の調書を含む)には、そのたぐいの記述はありません)  また、当然のことながら近代和風建築の遺構(登録有形文化財)の価値を、如何にして現代の来訪者に伝えていくかについては、(「人間くさい」物語を含め)別の論考が必要かと思います。
  • これら三資料のベースとなった1998年の高宮邸調査以後、近年の筆者の資料見分にて幾つかの発見がありました。これらについては以下の章にて触れますが、注目すべきは、西尾邸が(落成披露宴を開催した)大正4年よりかなり前の明治42年7月までには嘉蔵一家が居住出来るまでになっていたことが判明した点です。これは西尾の嘉蔵邸が六太郎邸よりもかなり先行して建てられたことを意味し、資料(3) では六太郎邸を それまでの家屋各棟の「量塊的配置から分散的配置への移行」の典型例としているが、分散的配置は(少なくとも貝島家内では)嘉蔵のアイディアで西尾邸で始められ、広がったものとの推論が成り立つのではないか、ということになります。


【2】建築に対する嘉蔵の造詣について


 大工棟梁もさることながら、建築施主の意向がどれほど働いているかは、重要な問題です。嘉蔵の意向を直接記録したものは見つかっていませんが、本資料文庫 2018年5月のブログ TKR_01 にて紹介した「偉盲 貝島嘉蔵翁」(吉村誠著)には次のような行があります。
[他日志を得ば]
氏が炭鉱生活に入りしより現今に至る実に三十有八年、此間其住宅を改築すること十三回の多きに及べり。(中略)今や拾数万円を投じて巍峨宏壮たる邸宅を、風光明媚なる直方町外西尾の地に築き、一見王侯貴人の殿堂の観あり。而も此建築に対しては、自ら設計し且つ監督せしといふに至っては、寧ろ氏の心眼余りに明にして盲目たるを疑はしむるものあり。(後略、下線筆者)

筆者もはじめは俄かに信じがたい思いで読んだものですが、次のような事柄と考え合わせると信憑性があると思うに至りました。
1)嘉蔵と直接会話を重ねた二人の福岡盲唖学校長の著述: 
 上に引用した記述は嘉蔵と親しく直接会話を重ねた吉村誠校長によるものであり、謙虚な嘉蔵が実際にそう言明したものを録取したのであろう。さらに吉村校長の後を継ぎ同じく嘉蔵から高額の寄附を受けるなど大変親しかった渡邊一郎校長も、嘉蔵略伝の中で「三十有八年間の炭坑生活中住宅を改築せらるること、十三回の多きに及ぶ。以つて翁の建築に趣味を有せらるヽことを知るに遇る。」と記しており、渡辺校長とも建築への造詣が語られていた模様である。 
2)西尾邸建設時に嘉蔵が大工棟梁と密接に話せた環境条件: 
 西尾邸の完成時点は、落成披露宴開催記録から大正4年とされているが、嘉蔵らはそれに6年も先立つ明治42年7月に香月の宅を引き取り西尾山に転宅している事実が近年判明した。(健次洋行日記記述により2017年に筆者が気づいた) 即ち、明治42年7月には西尾邸の一部が嘉蔵一家が居住できるまでになっていたこと、以後西尾邸が完成するまでの間、嘉蔵は毎日のように大工棟梁と会話して設計の相談をしたり工事を監督できる状況であったことが判る。さらに同年9月には健次が米欧遊学から帰国し西尾邸に居住したので、盲目の嘉蔵と棟梁の意思疎通を助けることも出来る環境ともなった。 
健次洋行日記1909年8月3日の記事の一部
ーー「物産ヨリ受取リシ多クノ来状ヲ読む。
七月三日ニ香月ノ宅ヲ引キ取リ 西尾山ヘ転宅アリシトノ事」と読める

3)友泉亭庭園整備・建建設時の嘉蔵の甚大な関与: 
 友泉亭の高宮貝島本家による購入・整備(昭和4年購入、同9年整備・増築完成)においては、(家督が健次に相続されており)健次が施主となって活動し、最晩年の嘉蔵は高宮邸で静かに老いを養っていたものと筆者も思い込んでいた。 然るに近年福岡市総合図書館に寄贈・公開済みの高宮貝島本家資料の執事日記を閲覧したところ、嘉蔵が高宮本邸から岸田執事一人を伴って、三日と明けぬような勢いで整備中の友泉亭に通っていることが記録されており(昭和4年、8年、9年分について筆者確認)、また別の資料からは亭整備のための役所への事務手続きや大量の庭石購入手続きなども嘉蔵が行っていることが判明した。(健次はこの間大阪に大正14年に設立して創業社長となった貝島乾留(株)の経営で福岡に居ない期間も多かったようだ。)  即ち、友泉亭整備・増築工事において盲目の嘉蔵が三日と明けずに工事現場に立ったことが記録上明らかとなったが、より若い時期の西尾邸建設時には(上述した環境条件のもと)これと同等以上の関与をしたと推定してよいであろう。
4)嘉蔵の口述回顧談: 
 嘉蔵が昭和2年に口述した回顧談「思ひ出づるまゝ」は大変信憑性の高い内容されているが、嘉蔵が炭坑現場で建てた施設や建築(西尾邸建設に先立つ時期のもの)に対して既に造詣が深かったことが読み取れる。

これらはいずれも本節冒頭の吉村校長の記述が信憑性のあるものであることを示していると筆者は思っています。
さらに1-3.節で述べたように、(少なくとも貝島家内では)、西尾邸にて初めての(家屋各棟の)「分散的配置」を実現したのは、嘉蔵の要望やアイディアと、大工棟梁・讃井傳吉との協議の結果ではなかろうかと筆者は想像を膨らませているところです。
 



【3】西尾邸・高宮邸を建てた大工棟梁について


 現存する旧高宮貝島邸の建築には、西尾邸の建築が高宮に移築されたもの、移築時に新増築されたものなどが混在しているが、その時の大工棟梁については、高宮移築時の棟梁が永野善兵衛であること以外よく分かっていなかった。
近年筆者の資料調査で、まだまだ不十分ながら大工棟梁に係るある程度の追加情報が得られたので、以下にそれらについて記述する。
 なお永野善兵衛は、史料によっては長野と記録されている場合もあるが、本ブログでは永野に統一して記述する。


3-1.直方町(現直方市)西尾に新築当時の大工棟梁


 (落成記念披露宴の記録から)大正4年に新築が完成したとされる西尾貝島本家本邸の工事を請け負った大工棟梁は、下に述べる根拠から讃井傅吉であり、永野善兵衛もその下で工事に参画していたと推察される。

1)大正5年の財産目録の記述より
 嘉蔵から健次への家督相続に際して作成された財産目録(大正5年3月)のなかに、西尾邸建築実費の相当部分につき「讃井請負高」との記述がある。(2015年筆者発見)
即ち、当方より福岡市に寄贈した文書である当該財産目録(福岡市総合図書館・平成28年度古文書資料目録 22、高宮貝島本家資料(追加分 三)番号85-1)から 次のように読み取れる。
この財産目録(和紙一冊、45 丁)の中に、「西尾邸宅新築実費」と題する章が在り、西尾邸新築実費が約40 項目に分けて示されているが、総額(建物費、造作費、庭園費、雑費の合計)の約25%に当たる2 万6 千7 百円余りもの費用が讃井請負高として記載されており、西尾邸新築時の大工棟梁が(六太郎邸と同じ)讃井傅吉であることを示している。なお、西尾邸建設当時の執事日記等は残されておらず、更なる根拠資料は見出せていない。
財産目録(大正5年)中、西尾邸宅新築実費のページ

2)上記学術的調査資料 (1) の記述より
 本資料のなかで著者は高宮邸の移築前の姿との異同を明らかにせんとする「復元」の章を設けて検証を進めているが、その37ページに次の記述があり、西尾邸よりやや遅れて建設された六太郎邸建設時の記録から、讃井傳吉と永野善兵衛の関係が推察される。
移築工事における棟梁格の大工は地行東町の永野善兵術である。彼は貝島家か所有した友泉亭の棟梁格の大工である。また、大正5年4月新築落成披露宴を行った貝島六太郎邸の大工の1人でもある。この時は棟梁格の大工は博多対小路対馬小路のミスプリ?の讃井傳吉であり。永野は9人列記された大工の5番目に名を記されている。永野が西尾貝高家の建設に関わったであろうことは推測されるか、具体的なことは未だ明らかにし得ていない。

3-2.初めて永野善兵衛の名が示されている高宮貝島本家資料


「高宮貝島本家資料」の中で初めて永野大工の氏名が見られるのは、大正9年5月の、地行別邸分の領収書綴りの中にある永野の出勤簿です。(総合図書館古文書目録⑤巻、593-5) この時の主たる作業は地行別邸の修理等の工事であったようですが、3日ほど直方にも出張しています
 永野の住まいは地行東町であったことでもあり、当時地行別邸に住まっていたと思われる嘉蔵は、西尾邸新築当時からの永野と親しかったのではないかと想像されます。



3-3.高宮移築時の大工棟梁および現存建物との関係


 高宮移築時の大工棟梁が永野善兵衛であることは、複数の資料により明らかである。
ただし、高宮移築時に増築された建築もあるので現存建物各々の大工棟梁は下表のとおりと考えられる。なお、各々の建物が西尾から忠実に移築されたものであるかどうかについては上記学術資料(2)にて論じられており、主として使用部材に(移築のための)墨書きの番付が付されているか否かにより判定されている。
現存旧高宮邸建物の大工棟梁
<注1>  現存の洋室は平成2年に内装(床及び壁面)がそれまでの和洋折衷様式から改変されている。西尾からの邸移築時に新築された和洋折衷様式の応接間は、大阪にて竹腰建造の設計指導を受けて永野善兵衛が建てたものであると考えられる(根拠資料は、総合図書館古文書目録⑤、資料#538「西尾本邸福岡市移転費」)。 現在の洋室の外観・天井・建具には建設当時の姿を見ることが出来る。本資料文庫の2018年7月のブログ TKR_06 も参照方。 
<注2>  現存の茶室棟は平成2年に南八畳の西方に位置していたのもが移設されたものであり、その際台所が増設され屋根が新しくされている。この平成2年の移設前の茶室は(本座敷との相対位置が少々変更されているほかは)西尾邸の茶室が忠実に移築されたものと見なされている。(上記学術資料(1)&(2)) 然るに筆者が2016年に気づいた資料によれば、この茶室は高宮移築後の昭和6年に(茶室以外の部分の増築等とともに)改修されていることが判った。(根拠資料は、総合図書館古文書資料目録⑤、資料#245 「居間茶室改築納戸庫扉改修費」) 永野棟梁が担当したものと思われるが、どの程度改修されたかはこの資料の精査が必要。

3-4.高宮貝島家による友泉亭の改修工事における大工棟梁


この改修工事(昭和9年完成)は、庭園の改修、既存建物(江戸期遺構)の修繕、別荘母屋の新築を含むが、この時の大工棟梁は永野善兵衛であった。 (2018年8月のブログ TKR_09 参照) この工事に、意外にも最晩年の嘉蔵が深く関与していることについては上述のとおり。


3-4A. 戦前期における永野棟梁と高宮邸(この項、2019年3月3日追補)

 今般福岡市総合図書館所蔵の或る資料(古文書資料目録⑥、高宮貝島本家資料 番号501、「高宮神社祭典記録」)の中に、昭和14~19年の間 高宮邸で催された高宮神社の祭礼(を名目とした健次の親しい友人知人招待イベント)の時に、20名あまりの招待客中に毎回永野善兵衛の名があることに気づいた。祭礼後の高宮邸本座敷における宴席の座席図が付されている場合もあるが、永野棟梁は主人の健次と向かい合う末席に配されている。
 このように友泉亭の工事完工後も、健次と永野棟梁とは親しい間柄であったことが分かる。永野も自分が手塩にかけた邸の出来栄えや居心地を楽しんだことであろう。

3-5.戦後、進駐軍接収解除後の原状復帰工事における永野棟梁


高宮邸在の執事日記(人の出入りを簡潔に記したもの)が残されており、総合図書館古文書目録に掲載されているが、それを一覧していたところ、下の永野善兵衛の名が出て来る記事に気づいた。
昭和19年2月15日:永野善兵衛来邸
昭和27年5月12日:永野大工来邸、見積り調査
昭和27年5月27日:(福岡調達局文書による返還財産引き渡し日)
昭和27年7月30日:健次夫妻ら接収解除&原状復旧後の本来の邸宅部分に移転
現在までのところ永野棟梁がこの原状復帰工事を担当したことを示す明確な記録等を見出し得てはいないが、上の記録よりその可能性が高いと考えられる。
原状復帰工事の明細については、福岡調達局作成の「返還財産引き渡し調書」という文書が残されているが(総合図書館古文書目録(15)、資料番号5-3)、そのなかに永野でなければ書けないと思われる、要修復箇所を示す「使用開始時と返還時現況との間の異同」などについての大変詳細な明細表が何十ページも存在している。原状復帰工事は2か月半ほどで終わっているが、この明細表をみていると筆者には永野棟梁の高宮邸に対する強い愛着が感じられるように思えたのだが、如何であろうか。
この明細表所収文書の表紙及びサンプルページを、ここ TKR11_att-2 に示しまします。


3-5.この章のまとめ


 以上の事跡から、大工棟梁永野善兵衛と二代にわたる高宮貝島家当主(嘉蔵・健次)は、大変気心の知れた関係であったと推察されるが、現在までのところこれ以上の永野棟梁の人物像や事跡を示す資料は(写真を含めて)なく、また建築のどのあたりが永野独特の工夫であるのかについてもよく分かっていないのは残念なことである。
少なくとも昭和27年まで活躍していたのだから、永野大工の想い出を語ることができる子孫の方が未だご存命ではないであろうか。



【4】まとめ

 
 以上、標題の「建築に対する嘉蔵の造詣と高宮邸を建てた大工棟梁」について、筆者の知るところを紹介しました。旧高宮貝島家住宅(市登録有形文化財)の公開を前に、さらなる研究が進むことを期待したいと思います。


【5】付言


 新神戸駅のすぐ近くに「竹中大工道具館」という伝統的木造建築に興味を持つ内外の人たちに広く知られた素敵な施設があるが、そこのガイドブックに下のようなページがあり、大工道具を作った鍛冶の名工の系譜が明らかにされている。福岡は大工道具の産地で無かったのか記載がないが、同様の福岡における大工棟梁の系譜が明らかに出来ないものかと思う。



【6】根拠文献に関する筆者メモ(非公開)


TKR_16 嘉蔵と竹本津太夫(番外)

ーー国立文楽劇場での特別展示ーー 2019年9月28日より11月24日までの期間、国立文楽劇場(大阪)にて特別企画展示「紋下の家 ―竹本津太夫家に伝わる名品ー 」が開催されています。 今回はこの展示のうち貝島家に関係する部分を中心に展示の概要を説明します。 ...