2018年7月18日水曜日

TKR_05 貝島嘉蔵家の歴史 と その家風の概略について

旧高宮貝島邸は、貝島太助の末弟 貝島嘉蔵(1856~1935年)に始まる嘉蔵家の本邸であった邸です。嘉蔵のあとの当主は 健次(2代目;1880~1953年)、孝(3代目;1906~1946年)・・と続きました。
今回は、この嘉蔵家の歴史とその家風について概略を記述します。
 なお今回は、標題に沿う既存資料が見当たらないので、資料紹介等でなく筆者の説明記述が長くなっております。
 

【1】貝島一族中での嘉蔵家の位置づけ


 嘉蔵は太助兄弟のうち、文兵衛(39歳にて早逝)、六太郎に続く末弟です。
 貝島一族中、嘉蔵家に本家の格称が与えられたのは 明治42年制定の貝島家家憲によるものです。――即ち、ここで宗家・2本家・6連家からなる貝島九家が家憲で定められ、また貝島家共同財産の各家持ち分も定められました。(下図参照)
 健次は太助の三男ですが、幼少のころから子のいなかった嘉蔵のもとで育てられ、嘉蔵家の養嗣子となりました。

より詳しい系図(但し三代目まで)は下記を参照ください。(なおこの図のシゲノ・永二の序列が逆になっており要訂正) TKR05_att-1

 嘉蔵家は家憲制定当時 直方西尾(直方町大字頓野、現直方私立第二中学校)に本邸を構え「西尾貝島本家」と称していましたが、昭和2年高宮(筑紫郡八幡村大字野間、現福岡市南区高宮)に移転し、以後「高宮貝島本家」と称するようになりました。

 高宮貝島本家と称した時代、即ち昭和2年から昭和25年(1927~1950年)には、高宮邸の当主たちが直接炭坑経営にかかわることはなかったので、高宮邸は他の炭坑主の邸とはかなり趣の違った年月を重ねました。
この辺りの事情は、旧高宮貝島邸の歴史的・文化的価値を生かすうえで関係者の理解が望まれる処なので、以下に嘉蔵家の歴史を(貝島家の炭鉱事業についても触れながら)略述しておこうと思います。


【2】嘉蔵家の歴史の概要


嘉蔵家の歴史を次の時期に分けて略述します。
なお、同じ時期の炭鉱会社についても 参考情報として青色の細字にて)嘉蔵家にも影響した主要イベント等を書き添えました。
 1)西尾本邸建設時まで(~明治42年)
 2)西尾貝島本家時代(明治43年~昭和元年)
 3)高宮貝島本家時代(昭和2年~昭和28年)
 4)健次没後(昭和29年~)

1)西尾本邸建設時まで(~明治42年)

 この時期は、TKR_01にて紹介した「偉盲 貝島嘉蔵翁」(大正7年刊)が描いている時期にほぼ一致します。
 嘉蔵(1856~1935年)は、赤貧の家に生まれ辛酸をなめた幼少年時代を過ごしたのち、長兄太助の尽力で兄弟ともども養家などから呼び戻され、ようやく力を合わせて炭鉱業で前進し始め、結婚もした矢先、25歳で失明の不幸に遭います。しかし、嘉蔵はこれを乗り越えて兄弟と力を合わせ、炭坑現場で約三十年間に亘り具眼者同様の活躍します。すなわち糧食分配所長を振りだしに、炭坑開鑿・採鉱の計画設計や 炭坑長としての現場指揮・経営に辣腕をふるいました。明治29年香月炭坑(後の大辻炭坑)買収後は、ここの炭鉱長を明治42年まで13年間務め、炭坑現場で活躍しています。この間に開鑿された新抗口16本、買収された鉱区5ケ所に及ぶという。又この間の大辻炭坑の出炭高は貝島全体の39% 
 明治42年は、嘉蔵が直方西尾に本邸を建設して香月から居を移した年ですが、同じ年に家憲の制定、貝島礦業合名会社の清算・株式会社への組織変更、嘉蔵の現役引退などのイベントもあって期を画する年です。
 また、この期間の末期には、嘉蔵の養嗣子健次の東京高等工業学校卒業・タケ(旧姓三浦)との結婚・長子孝誕生(明治38・39年)、健次の米欧遊学(明治40~42年、弟太市同道)、などのイベントがあり、二代目当主への代替わりの準備が進んでいます。
炭礦会社では、この期間は、太助が兄弟と相携えて大之浦炭坑開鑿に挑戦し(いろいろ危機はあったが)これに成功、さらに鉱区拡大などの積極的な経営により大発展を遂げて貝島が全国でも有数の大炭坑会社となり、初代兄弟が現役を引退して守成期にはいるまでの時期に当たります。この辺り経過を略述すると以下のとおりです。
  • 明治10年(1877):太助 帆足義方の組合員となり馬場山炭坑を開鑿。諸弟補佐す  
  • 明治18年(1885):太助 諸弟らと大之浦炭鉱を創業  
  • 明治24・25年(1891・92):鉱区積極拡大策と折からの経済恐慌から財政危機に陥るも、井上馨の知遇を得て毛利家の巨額資金の(三井物産経由)借入成る 
  • 明治29年(1896):日清戦争による炭価高騰あって利益を上げ、毛利家に対する負債を償還して鉱区の名義及び実権を回復 
  • 明治30~39年(1897~1906):積極経営により大発展 
  • 明治39年(1906):事業拡張に要した負債全部を清還
  • 明治42年(1909):家憲制定、合名会社を改め貝島鉱業株式会社を組織す 
 危機に陥った明治24年からこの明治42年の間の大発展を出炭高で見ると、以下のようになります。

2)西尾貝島本家時代(明治43年~昭和元年)

 米欧遊学から帰国した健次(1880~1953年)は、貝島礦業(株)の菅牟田鉱業所長に就任(明治42年)、西尾邸完成披露・健次家督相続(大正4年)の後、常務取締役鉱務部長(大正5年)・社長(大正8~10年)と貝島礦業(株)の幹部を務めました。
 しかし社長を引いた後、健次は炭礦会社の経営実務から離れ、二回目の洋行(石炭低温乾留事業調査)を経て、大正14年大阪に貝島乾留(株)を興してその創業社長に就任。
またこの年 福岡への転居を決意、西尾邸の解体に着手しました。
即ち、この期間の後半(大正11年)からは、嘉蔵家は炭礦の経営に直接的な関与はせず、大正14年からは本邸を産炭地から離れた現福岡市高宮の地に移す動きを始めています。
炭礦会社では、二代目子弟に経営実務が継承されていった時期に当たります。この間以下のようなイベントがありました。
  • 大正2年(1913):栄三郎副社長(太助長男)逝く (39歳)
  • 大正5年(1916):貝島礦業(株)初代社長太助逝去、栄四郎(太助次男)社長に就任(途中外遊中の2年間を除き、昭和6年まで)  
  • 大正6年(1917):鮎川義介 貝島家顧問代理に就任(昭和2年まで) 
  • 大正8年(1919):貝島合名会社(持株会社)、貝島商事(株)設立 (合名・礦業・商事の三社体制) 
  • 大正9年(1920):自社炭の自主販売権を恢復(1891年よりの三井物産との石炭委託販売契約を解約
上表の数字が示すように、この間に出炭量は倍増近い増大実績を得ているが、対筑豊及び対全国出炭比率は微減となっています

3)高宮貝島本家時代(昭和2年~昭和28年)

 本邸を昭和2年に直方西尾より高宮に移築・転居してから、第二次世界大戦を経て、健次が没するまでの期間であります。なお、昭和25年からは本家の格称はやめ高宮貝島家と称した) 因みに昭和2年は、福岡にて東亜勧業博覧会開催され、市が急速に発展し始めた年ともいわれています。
 健次は 貝島乾留(株)社長を大正14年から(途中石灰工業を合併して貝島化学工業(株)社長として)昭和18年まで務めましたが、その間は西宮別邸や京都別邸に逗留する期間が相当多くありました。また、昭和13年より貝島合名会社社員会長 及び一族会会長を昭和25年の解散時まで務め、一族各家間の調整やとりまとめなどに当たりました。
さらに戦後は 昭和25年より28年に没するまで大辻炭礦(株)社長を務めました。
 なお健次の長男 孝(1906~1946年)は、学業のため高宮邸を離れていましたが、大学卒業後 神戸支店勤務となるまでの間(昭和7~10年)には貝島炭礦若松支店勤務でしたので小倉の社宅に居たが)屡々高宮にも逗留していた模様です。

 この間、戦前期の高宮貝本家では;
  • 孝の京都帝国大学卒業と結婚(昭和6年)
  • 友泉亭の購入・増築/庭園整備工事(昭和8年完成)
  • 孝 神戸出張所勤務開始/孝一家西宮邸に転居(昭和10年)
  • ヒロ/嘉蔵逝去(昭和10年)
  • 奈多・軽井沢別荘の購入及び邸内新館の建設(昭和11~13年)
など(嘉蔵夫妻逝去を除き)慶事が多くありました。
他方戦中・戦後期には;
  • 孝 高宮にて病臥を始む(昭和18年)
  • 孝の家族の西宮宅から高宮本邸への疎開(昭和20年から1年間)
  • 孝逝去(昭和21年)
  • 財産税など戦後諸法制への対応
  • 進駐軍による本邸家屋の大部分の接収(昭和21~27年)
など、高宮邸は戦災は免れたものの一家にとっては苦難の年月が続きました。
しかし、昭和25年頃からはようやく戦後の困難な時期を脱し、健次にとっては大辻炭礦社長就任・邸の進駐軍接収解除も成った最晩年でした。
炭礦会社では、この間次のようなイベントがありました。
  • 昭和2年(1927):久原鉱業(株)の債務整理のため巨額の貝島家資産を提供 
  • 昭和6年(1931):貝島炭礦(株)の発足(貝島礦業が商業・大辻岩屋炭坑を合併。社長貝島太市――以後戦時中会長の時期もあったが昭和38年まで社長に在任 
  • 昭和15年(1940):華北占領地域の井陘炭鉱に出資、経営に当たる
  • 昭和19年(1944):各炭鉱軍需工場指定を受く
  • 昭和21年(1946):戦後復興に尽力、労働争議頻発、政府は傾斜生産方式決定
  • 昭和25年(1950):合名会社・一族会解散 →貝島親和会に。大辻炭礦設立。岩屋炭坑売却。
  • 昭和27年(1952):貝島炭礦株式公開
  • 昭和28年(1953):東部開発工事竣工、太市(健次没後を受けて)大辻炭坑社長・貝島親和会会長にも就任

4)健次没後(昭和29年以後)

 孝没後(昭和21年~)孝の子弟(四代目)は、健次の意向にそって西宮邸に留まって養育され、次いで東京に転居して学業を終え、それぞれ炭鉱業とは無関係の業種に就職しました。
 健次・タケ没後(昭和29年~)も 高宮邸は無主のまま維持され、孝の遺族がたまに利用する程度でありました。このような事情から高宮邸は、昭和29以後 昭和51年の倒産に至るまでの大辻・貝島炭礦の浮沈には無関係な佇まいでありつづけました。
健次没後の炭鉱会社の動向については記載省略。

 その後平成9年に至り、高宮邸の地所は第2次緑地指定を受け、福岡市は公園開設に向けた動きを始めることとなります。
ーーこの辺りの事情や、高宮邸の蔵が平成15年まで健次存命の頃の状態のまま残されていたこと、収蔵されていた文物多数が今も福岡市総合図書館ほかに残されていること、またこのような稀有な偶然が旧高宮貝島邸の特徴の一つにもなっていること、などについては、別の機会に紹介することとしましょう。

  

【3】高宮貝島邸での嘉蔵家の家風について


概要
 上述の嘉蔵家の歴史から分かるように、嘉蔵・健次ともに炭坑現場で坑長を務めた経歴のある人物でありますが、高宮邸での嘉蔵家(即ち高宮貝島本家)は、炭坑現場とはやや隔絶した家風になっていたと想像されます。政界との付き合いはなく、ビジネス上の会合や派手な宴席などは高宮邸で催されることは少なかったようです。(他方親戚も列席する仏事の方は多くありました)
嘉蔵はすでに円熟した朗らかな人物であったし、健次・孝は東京や京都で高等教育を受けたハイカラな教養人でもありました。(健次は二度の洋行経験もあり)

嘉蔵家三代の記念写真
 下は、昭和6年11月高宮邸の玄関前で撮影された高宮貝島本家三代が勢揃いした写真です。(孝・艶子の京都での結婚式直後のお国入りの時のものです)
建物もそうですが、上質であっても華美ではない質実な風情が感じられるのではないでしょうか。




当主たちの趣味・嗜好
 上の写真の三代の当主たちはそれぞれ高宮邸にマッチした(と筆者が思う)趣味・嗜好を持っていましたが、ここでは嘉蔵と健次のもののみを紹介します。
嘉蔵
  • 読書(読み聞かせを聞く)
  • 浄瑠璃、文楽見物
  • 仏道聴聞
  • その他、盲学校支援や建築(計画と現場監督)
健次
  • 囲碁
  • 謡(宝生流)、能楽鑑賞、文楽見物
  • 絵画(地方画家の松永冠山・水上泰生らを贔屓に。自らも高宮山人と号して描いた)
  • 骨董蒐集(主に京都別邸で)
  • 酒食(ドライマティニーや灘の清酒、ふぐ料理などが好物)
これらは家風の一端を示すものですが、それぞれに価値ある作品や記念品が残されていたり、それ自体が奥深い芸道であったりしますし、当時の財界人が身に着け 肩入れした文化でもありました。
それ故、修復・整備後の高宮邸とともに適切な展示や稽古教室を開くなどすれば、現代人にも共感が得られ、旧高宮邸の登録文化財建築のより良い活用に繋げることが出来るのではないでしょうか。
ーー当主たちの趣味・嗜好については、今回はここまでにとどめ、別途より具体的な資料等を示すことにしましょう。


【4】まとめ


 今回は嘉蔵家の歴史とその家風について概略を記述しました。今後増補して行く予定の諸資料の位置づけを理解しやすくすることを目的としたものですが、さらには旧高宮貝島邸が単に「残された炭坑主の旧邸宅の貴重な一例」ではなく、特有の歴史と文化をもった地所であり遺構であることの理解に向けた基礎資料ともなれば幸甚です。
 
 参考として、福岡市総合図書館 第2回文書資料企画展「炭礦王 貝島氏展」(平成11年3~4月)のパンフレットを付しました。
    Downloadはこちらから(pdfファイル、3.3MB)   TKR05_att-2
       

 








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