2019年6月12日水曜日

TKR_14 嘉蔵と竹本津太夫(その1)

――イントロ と 横山大観筆「霊峰一文字」の話――



イントロダクション


筆者には2015年初頭までは、嘉蔵と竹本津太夫や義太夫との関りについて、次のことぐらいしか頭に入っていなかった。
  •  嘉蔵と津太夫との間柄についての母の口伝――小学校4年生のとき(1951年)祖父が一家を大阪四ツ橋での文楽見物に連れて行ってくれたことがあったが、その時母から「嘉蔵おじいさまは、むかし津太夫少年と肩を並べて義太夫の稽古をしていたことがある。(それもあって)貝島はずっと津太夫を贔屓にしていた。」との話を聞いたことがある。
  • 高宮邸の蔵に保存されていた義太夫見台――1999年長兄が友泉亭に当時の福岡市長他を招いて昼食の宴を持ったことがあるが、その際高宮の蔵から嘉蔵が使ったとかいう立派な義太夫見台を持ち込み、それを使っての小学生による義太夫語りをおもてなしの一つとしたことがある。なかなか感動的な「阿波の鳴門」であった。

然るに2015年初頭に至り、友人から、「箱根の美術館で素晴らしい横山大観の富嶽図の大作を見たが、ガイドの説明ではそれは貝島何某がパトロンになって文楽太夫に送ったものとのことであった。貴君も観に行くべし」との趣旨の連絡を受けた。これが機縁となって色々調べたりするうちに、幸運な出会いなどもあって、素晴らしい芸術や、吃驚するようなエピソードの数々に出会うことが出来ることとなった。
まだまだ全面的な解明には至ってはいないが、次のような段落に随ってこの辺りの話を説明したいと思う。

  1. 横山大観筆「霊峰一文字」の話
  2. 浄瑠璃趣味に関する貝島側の遺品と史書記述について
  3. 三世・四世竹本津太夫の人と芸 並びに貝島が贈呈した梅の見台について
  4. 貝島側記録で分かった嘉蔵らと津太夫との交誼について


【1】横山大観筆「霊峰一文字」の話


前述のように友人からの知らせを受け、20153月、箱根小涌谷にある岡田美術館で大観の大作である「霊峰一文字」を見に赴いた。事前に連絡しておいたところ同館の小林忠 館長から、この作品の来歴や貝島との関係など、館の調査結果の詳しいお話を伺うことが出来た。
この大観の大作富嶽図の迫力・魅力も息を呑むようなものなのだが、この作品制作の由来や、製作後の作品の運命も大変興味深い物であり、且つこれに関わった人間のなかに貝島が登場するところから、以後現在に至るまで筆者が、貝島(就中嘉蔵)の津太夫や義太夫・文楽に係わる事跡を調べる契機となった。
それゆえ、本章ではこの大観筆「霊峰一文字」にまつわる話について、かなり詳しく説明したいと思う。


1-1.作品自体の紹介と概略説明


作品(横山大観 霊峰一文字)の画像 及びその来歴等の概要を以下に示します。
なお、「一文字(いちもんじ)」とは、文楽舞台の上方に置かれる細長い引幕のことです。(舞台上部の諸機構を観客の目から隠すために使用されます。) 作品は現状では表装されていますが、元々は一文字即ち引幕に揮毫されたものです。

▷ 作品の画像
大体どのような作品であるかを把握してもらうため、岡田美術館のHomepageに掲載されている画像を下にコピーしました。やはり本物の迫力・魅力は格別ですので、是非同館に足を運んで鑑賞していただきたいところです。

部分
霊峰一文字
 (れいほういちもんじ)
横山大観(よこやまたいかん)

 大正15年(1926)
 絹本墨画金彩 1卷(付属1卷)
 94.0×873.2cm 

全体

▷ 作品の概要説明

 同館のHomepage上で公開されている本作品の概要説明は以下のとおりです。
約9メートルに及ぶ長大な画面に、涌き起こる黒雲の中から姿を現した霊峰富士の雄姿を描いたもので、大正15年、数え年59歳の横山大観(1868〜1958)が水墨の妙味を発揮して描いた力作です。当時の大阪文楽座の座頭(ざがしら)であった義太夫節の太夫・3世竹本津太夫(たけもとつだゆう 1869〜1941)が、病気全快したことを祝って再帰後の舞台を飾るために描きました。 同年9月15日から始まった『伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』の公演で使用された後、文楽座の火事で危うく焼失するところを、幸運にも免れたという後日談があります。長らく所在が不明であったものですが、再び世に現れて公開の運びとなりました。

▷ 展示環境

 箱根の岡田美術館は201310月、箱根小涌谷にOpenした全5階展示面積約5,000㎡という大規模な美術館。岡田和生が収集した日本・東洋の美術品だそうです。www.okada-museum.com 参照方)  同館2階に、横幅10mにも及ぶこの大作を途中柱なしに、遠くからも近くからも鑑賞できるような、贅沢なスペースと巨大ガラスの展示ケースが用意されています。

1-2.本作品制作・贈呈に関する興味深い物語 及び津大夫の人物像


筆者が20153月に岡田美術館に赴いた時には、小林忠館長と稲墻朋子学芸員が応接して下さり、詳しい説明を伺ったり関連資料コピーを頂戴することが出来た。


▷ 頂いた資料

 頂いた資料の中から次の2点を下に示します。
     2014年の本作品初公開のとき、館長による講演会で使用された「説明メモ」
  (閲覧はここ TKR14_att-1 から)
     大正15(1926)911日付大阪朝日新聞記事「大観画伯が引幕を描く――津太夫の意気と古典芸術のために」(文楽協会『義太夫年表(大正編)』に掲載されたものーーただしこの年表では出典を誤って毎日新聞と記している
  (閲覧はここ TKR14_att-2 から)


▷ 説明を受けた本作品の制作・贈呈に関する興味深い話

② によれば、津太夫の談話として「先月(大正158月)十三日東京の歌舞伎座を打揚げまして、翌十四日、日ごろひいきを蒙ってゐる九州の貝島炭礦王が築地の新喜楽にゐられたのでお禮に參りましたところ偶然にも横山大観さんがお出でになつてゐまして、お目にかゝりました。いろいろ話してゐるうちにすつかり共鳴してしまひまして何か一つ記念にといふところから、かねて貝島さんから私の病気全快祝ひとして頂戴することになつてゐた一文字(舞台の上に吊る幕)に筆をふるって戴くことになったのです。」とある。
筆者としては、上述の母の口伝もあって貝島の名が出て来るところを興奮しながら読んだが、一般には当時59歳で美術界の総帥といった立場の横山大観画伯が当時文楽の座頭であった竹本津太夫と意気投合し、意気に感じて画筆をふるった美談と受け取るべきものと思う。記事によれば大観が「あのまゝにしておけば文楽は滅びますからね。津太夫には前にも會ひました、その態度は気に入ってゐます、つまり彼の意気に感じ、古典芸術のために墨さうと思って承諾したのです」と語った由である。
そして、① によれば、この富嶽図の引幕は大正15(1926)年9月15日からの御霊文楽座盆替り興行で使われた。演目は『伊賀越道中双六(大序よりハッ目まで)』。八つ目の「岡崎」の段までは、鎌倉から始まり、沼津、藤川、岡崎へと旅をする東海道道中双六の趣向であり、富士山の図は劇の内容にふさわしい。なお病癒えた(3世)津太夫は、この公演で最後の岡崎の段のキリを務めている。(三味線は鶴澤道八)

▷ 津太夫の人物像について

また、(3世)津太夫については、名前だけは母の口伝で知っていたが、頂いた資料にて次のような経緯で文楽の世界に入ったことや、芸風の概略などを知ることが出来た。即ち、「津太夫は明治二年、福岡県田川郡香春町に生まれ、本名を村上卯之吉と称した。豊前彦山権現に遠からぬところで育ったのだが十三歳の時志を立てゝ竹本綱尾といふ女義の手蔓で大阪に出で、法善寺に居た二代目津太夫に入門を求めたのだった。(以下略)」明治43年春三世津太夫襲名、大正135月文楽座紋下、昭和1657日没(73歳)。豪快な芸風で、一段中少しもゆるめぬ熱演。剣法知らず人は切れる、といった感じ。床に上がると客を圧倒する。すしや、逆艪等がよく、晩年は沼津等にも味があった。ーーとのことである。


1-3.その後の霊峰一文字の運命


上述の大正159月の御霊文楽座盆替り興業の後、この大観描く富嶽図の引幕は次のような数奇な運命をたどって、岡田美術館が所蔵することとなった。

▷ 御霊文楽座焼失

(贈呈直後の大正15年)1129日午前1148分に文楽座舞台正面の天井裏から出火、文楽座および御霊神社全焼。津太夫らは121日からの広島はじめ中国、九州地方への巡業を前にして、1128日に荷造りした人形、衣裳全部を焼失。わずかに各太夫が持ち出した見台その他各自が運び出していたもの(大観「富士図」幕も含まれる)は類焼を免れた。横山大観と竹本津太夫の交友を記念する、この大観描く富士図の大作にして傑作は、まさに危機一髪のところで、焼失を免れたのであった。

▷ 戦前期におけるこの引幕の使われ方

焼失を危機一髪のところで免れたきこの貴重な引幕が、戦前の舞台でどのように使われ観客らに評価されたかについては、記録が無いようであり、現在までにところ筆者には分かっていない。昭和16年の3世津太夫没後、4世津太夫に相続されたが、戦後の文楽座困窮期にやむに已まれず手放されたということらしいが定かではない。

▷ その後、岡田美術館所蔵となるまで

小林館長でのお話では、この作品は、存在自体は或る白黒写真で知られていたが、長らく行方不明になっており、権威ある大観の作品全集にも収録されていなかったものだそうです。岡田美術館所蔵となるまでには色々の経緯を経ているようだが、そこまでのお話はなかった。この間、引幕は為書きの部分が切り離され、それらが各々表装された形になっている。

1-4.霊峰一文字と貝島の関わりについての筆者の大きな興味


上述の資料①には、彼の新聞記事をもとに【資金主は「九州の貝島炭鉱王」貝島太市】と記されているが、筆者は本当に太市氏であったかどうか疑問に思った。
因みに筆者が疑問に思った理由は以下のとおり。
  • 太助が浄瑠璃天狗と言われるほど義太夫を愛好した由だが既に没しており、大正15年に津太夫と密接な付き合いを持ち得たのは、嘉蔵・健次・太市(筆者の曾祖父・祖父・祖父の弟)の3人である。
  • 健次は大正14年に貝島炭鉱から転じて大阪に貝島乾留株式会社を創立し、その社長となっているので大正15年当時京都又は西宮に起居しており、文楽好きでもあったと聞いていたので、(母の口伝にある少年時代からの縁がある)嘉蔵の意を受けて津太夫に快気祝いを贈ることは自然に思える。
  • 他方、太市が浄瑠璃の稽古をしたり、文楽を愛好したとの話は聞いたことが無かったし、長府に在住して貝島炭礦社長としてその経営に当たっていたのだろうと想像される。(後の調べで実はそうでもなかったらしいことも分かったのだが・・)

作品の迫力・魅力及びその来歴の不思議の興奮しながらも、この引幕贈呈の話は、貝島側の史書には記載がなく、また口伝も聞いたことがないので、筆者は大きな興味を持ち、以後色々調査に深入りするところとなった。
  この深入り調査の結果については、稿を改めて(その2)以降で書いてみたい。



 

 ■ 今回投稿分のまとめ

  
  今回は「嘉蔵と竹本津太夫」と題して4回くらい続く投稿のイントロを述べ、且つ筆者の調査活動の契機ともなった、横山大観筆の大作富嶽図「霊峰一文字」との出会いや これにまつわる話について述べた。






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