2018年8月13日月曜日

TKR_08 旧高宮邸内の雑木山について

今回は旧高宮邸敷地面積の 1/3 以上を占める雑木山について紹介します。
筆者自身も、ここ雑木山に三十数年来足を踏み入れていないので、現状をよく知っているわけではないのですが、健次存命中の嘗ての姿(S2~S28年)の情報も、今後の整備・活用の参考となることもあろうかと考えて紹介する次第です。


旧高宮邸敷地全体図(福岡市提供)

【1】概要

雑木山は右図の高宮邸敷地の南の部分に存し、幅約95m・奥行き約75mほどの面積で、その頂上部は母屋の地盤より約7.5m高くなっています。(敷地入り口付近の道路面からは約18m高) そして色々な種類の大木の樹林に覆われ、中に入ると野趣の感じさせる雑木山でした。

雑木山説明図
(雑木山等高線図にS55年当時の平面図を重ね書きしたもの)
     (参考) S55年当時の平面図はこちら; TKR08_att-1

【2】健次存命中の雑木山の様子

雑木山部分は、緑地指定を受けてS56~62年度に福岡市に譲渡した部分です。その時点までは健次存命中(~S28年)とほぼ同じ姿を保っていました。当時の様子を今後の雑木山の整備・活用の参考として説明します。
2015年撮影の雑木山中の社(市職員提供)
高宮神社 
 雑木山の頂上部には高宮神社と称したお宮がありました。社はS2年の西尾からの建物移築時に、西尾以外のどこかから移築されたものであることが記録に残っていますが詳細は判っていません。炭坑主の邸内の神社ですから、山の神系統であろうと思われますが、由来についての口伝はありませんでした。 社は、2015年現在未だ現地に残されている由です。 


▷礼拝堂 
 南の端の位置に鉄筋コンクリート造りの礼拝堂がありました。これはS11年に建設されたものですが、S58年頃市への底地譲渡時に取り壊しました。内部には丈六の阿弥陀仏と持仏が安置され、仏事のときには僧侶も参列者も立ったままでお参りしていました。 健次がどのような思いから礼拝堂を建設したかについてはよく判ってはいません。
雑木山内の遊歩道
 図に示すように、南庭の南東端に遊歩道の入り口があり、道はすぐに二股に分かれて神社または礼拝堂に通じていました。
その他の建物等
 図中神社境内の  の位置にあたりに明治の元勲(井上馨及び伊藤博文)よりお手植えを受けた松及び檜の記念碑が現存している由であります。S2年の西尾からの移築時にこの記念碑も持って来られたのでしょう。
 同じく の位置に六角亭(ちん)があり、その前、社寄りに石造りの鳥居がありましたが、S24年頃でしたか雑木山中に掘った大型防空壕が陥没してこの辺りに大穴があき、崩れたため再建されなかったかと思います。
 同じく の位置には梅の亭(ちん)がありましたが、戦後期には既に崩れかかっていました。 
雑木山内の植生 
 雑木山内の植生はごく一部を除いて自然植生であったと思っています。主たる樹木の種類については、(筆者は詳しくないので)詳しい方に現状を解説して頂くほかないところですが、樫、椎、など広葉樹が多く、また背の高い松の大木も多数あったのですが戦後松くい虫により枯れてしまいました。
 Ⓐ の部分には孟宗竹の林がありました。(現在邸内各所に孟宗竹がはびこっているようであるが、嘗てはここだけに存在した。)
 Ⓑ の部分にそう多数ではではないが栗の木がありました。
 Ⓒ の南庭に雑木山が接する部分には、梅の木が並べて植えられていました。
そのほか梅の亭から神社までの遊歩道には紅葉の木も植えられていたように記憶します。 
大型防空壕 
 S20年全国的に空襲が激化する時代に、この雑木山の横腹に急遽大型の防空壕が掘られ、警報発令時には家族・家人のみならず近隣住民も収容しました。炭坑から来た抗夫がトロッコも使って掘り、その土砂は枯れ山水部を埋めました。壕の入口は茶庭の先辺りに在り、横穴は丸太を組んで支えられておりましたし、電気も引かれていた記憶があります。(なお、この防空壕の設計図は残されています。)  戦後S24年頃でしたか、何カ所かで陥没が発生し、S27年までには埋め戻し工事を済ませました。

【3】雑木山の使われ方

雑木山の樹林に足を踏み入れると、木々に遮られて神社前の高台でも眺望が効かない程で、非日常的な空間となります。健次が雑木山を散策することはまれであったように思いますが、高宮神社には正月と5月5日の祭礼の折、親類縁者も招いて一緒に参拝していたし、礼拝堂にも親類縁者と共に出向いて仏事を行うことがありました。また、春には家人が孟宗竹林から筍を掘り、秋には栗を採ってもたらしました。さらに健次夫人竹子は草月流の華道を能くした人で、時に雑木山に入って枝などの材料を集めることもあったようです。
勿論筆者ら子供たちは、高宮邸逗留時にはよく遊びに入ったものです。
このように、時に足を踏み入れ普段は南庭から風にそよぐ木々の梢を眺めたりする雑木山は、高宮邸が持つ独特の雰囲気を醸すものであり、当主家族や家人に愛されたものです。

因みに高宮貝島本家の執事日記は福岡市総合図書館に寄贈・公開されていますが、その中に S5年5月5日の高宮神社祭礼日の記事があります。何人くらいの客を招いてどんなハプニングがあったか、もしご興味があればこちらから。 TKR08_att-2


【4】付言

雑木山をどのように整備して公開・活用するかにつき、下記が参考になろうかと思います。
  • 礼拝堂付近から神社境内へは子供でも容易に登れたので、散策路を追加して回遊路とすることは困難ではない筈。
  • しかし、山中に神社・礼拝堂のような施設が何もないまま、散策回遊路のみとしたのでは魅力が乏しいものとなろう。
  • 礼拝堂跡の辺りは邸周囲の道路との高低差があまり無いので、道路からもアクセスできる施設(例えば雑木山の植物・生物に親しむよう指導するボランティアの拠点、自動販売機カフェ兼営)を作ることが出来るかもしれない。
  • 雑木山北西面の樹木を一部切り開くことにより、神社境内の一部箇所から邸内の建物が見晴らせるように整備できるかもしれない。
  • 散策路以外はボランティア・グループ以外は立ち入り禁止とするのも一方策。



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